越ヶ谷町の商業

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越ヶ谷町は、越ヶ谷町を含め出羽・蒲生・増林など周辺耕田およそ六〇〇町歩から収穫される越ヶ谷米の集散地であり、各地に移出される商品米は年間一〇万俵以上にのぼるといわれ、越ヶ谷米や太郎兵衛糯の出荷地として著名であった。ことに大正二年越ヶ谷米穀商組合は、越ヶ谷肥料商組合と提携し、強力な組織のもとに商取引の拡大強化がはかられた。当時の主な米穀肥料商は、永楽屋・米長・佃屋・谷中屋・鈴木屋・鍋佐・八百志・伊勢幸・油長・卵屋・越ヶ谷屋などで、その多くは米穀や肥料を扱っていたが、公式には米商一五軒、肥料商二〇軒となっていた。

 また移入品では、呉服太物・砂糖・荒物・鮮魚・肥料などで、たとえば肥料だけで年間およそ一〇万円を下らない取引が行われた。呉服太物では、数十人の雇人を使い、神奈川県平塚町に支店を設けていた新町の万寿屋がもっとも盛況をきわめていたが、ほかに、ぬし市・中村屋・しらば・山田屋などの呉服商があった。このほか主な商店では、農具金物類商の木下商店や餝屋商店、鮮魚乾物では八百喜、荒物では喜京屋・鍛冶忠、洋物では豊田商店や正能屋、酒商では流山の秋元分店、薬種屋では退歩堂や森田薬舗、銘茶では石塚屋、青物では笠屋、古道具屋では白屋、自転車では前田自転車店、仕立屋では白木屋、新聞店では協立舎、学校用品では万才屋、材木商では佃屋や越ヶ谷屋、陶磁器では津国屋、土木建築請負業では宮内省御用達遠藤組などがあり、日常生活の必需品はすべて当町で賄える盛況であった(「越ヶ谷案内」)。

万寿屋呉服店(「越ヶ谷案内」から)

 ことに例月二・七日の市日には、各商店の商取引がこの日に集中したが、また主に東京千住から出張する古着・古道具・玩具など、百数十店から二〇〇店に及ぶ露店商人が仲町を中心に出店を構え、近郷農村からの人出を集めて雑踏をきわめたという。