当時の農村では、工業の専業者はきわめて少なく、農家の副業として工産品が産出されたが、この工産物を桜井村大正二年度でこれをみると、次のごとくである。まず経木真田が三九三七本、一本当りの単価が一六銭で総額六三〇円、麦稈真田が九三三三本、一本当り六銭で同五六〇円、麦経木交真田二万九五四五本、一本当り二二銭で同六五〇〇円、傘の生産高が一八六五本、一本当り三〇銭で同五六〇円、建具類では板戸・障子の生産が各一二五枚、一枚当り八〇銭で同二〇〇円、指物類では箪笥二五〇組、一組当り金八円で同二〇〇〇円、洋箪笥二二八組、一組当り三円五八銭で同八〇〇円、机二〇〇個、一個当り一円五〇銭で同三〇〇円、書箱二五〇個、一個当り二円で同五〇〇円の生産をあげていたが、建具や指物類の職人は、おそらく専業者であったかも知れない。このほか二六戸の桐箱製造者がいたが、これは雨天や農閑期を利用する農家で、枕台や歯磨箱を年間三万二〇〇〇個を産出、総額五三〇〇円の産額であった。玩具製造人も当時五人を数えたが、その産高一万五〇〇〇個、一〇五〇円の産額をあげていた。
なお乾饂飩が四〇〇〇把、醤油一八石、味噌四八〇〇貫が生産されていたが、これらは自家用となっている。ほかに三一戸の農家が二反二畝歩の茶園を経営していたが、このうち販売用の製茶は二万五〇〇〇匁であったという。このほか藁工品があるが、この生産高やその産額はつまびらかでない。
またこれら工産品を蒲生村大正四年度に例をとると、蒲生村では染物や竹製品の産出が盛んで、染物は年間一万七五〇〇反、その総額は二九〇七円、竹製品の産額は三一三〇円である。このほか石工品同六〇〇円、木製品同六五〇円、足袋一八〇〇足同三六〇円、藁工品同二万〇九四六円、その他七四二五円の工産物を産出していた。もっとも蒲生村では工業を専業とする者が、男女合せて九〇名を数えたが、桜井村の工業専業者は勧業統計書に三名と書上げられていた。