反当収量の変化

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越谷市域の農業の大正期における状況はどんなものであったろうか。その生産諸関係をあらわす地主制のあり方を中心に考えてみる。まず反当収量の推移についてみよう。大正二年から昭和十五年までを四期に分けてみると、全期を通じた全国平均の反当収量は着実に増加をしている。このうち西日本の各府県の大部分は躍進的ないし進展的増加をみるのに対し、東日本の各道県はほとんどが漸進的増加である。なかでも埼玉県は、第一期(大正二~十一年)の平均反収一石五斗三升二合(全国平均一石八斗四升八合)であつたが、第二期(大正十二年~昭和七年)には一石七斗二合(同一石八斗五升六合)と増大し、第三期前半(昭和八~十二年)は一石八斗一升三合(同一石九斗六升四合)、同後半(昭和十三~十五年)は一石九斗四升九合(同二石四升)と増加傾向を示している。東日本の漸進的傾向のなかで、埼玉県は全国平均よりも反当収量は低いが、大正から昭和期にかけて全国平均との差を徐々に縮少する傾向をもっている県である。明治期の傾向とはまた違って漸進的傾向のなかでも進展的性格を示す県の一つである。

 また南埼玉郡の反当収量は、明治四十五年の一石八斗八合、大正五年の一石六斗一升九合、同十年の一石五斗四升八合、同十五年の一石五斗九升、昭和五年の二石七升九合となっており、大正期は停滞傾向を示している。越谷市域の村々については資料が少なく、大正四~十五年を通して反当収量の判明するのは蒲生村のみである。すなわち大正四年は一石九斗九升七合、同五年一・九三三(以下・は石未満を示す)、同六年一・八九四、同七年一・六五四、同八年一・九八九、同九年二・〇三八、同十年一・七六八、同十一年一・六七六、同十二年一・九二一、同十三年二・〇六七、同十四年二・〇九三、同十五年一・九四八となっている。蒲生村の大正期における反当収量の推移は大正十一年頃まで年により高低があるが、県や郡の平均収量より高くなっている。