蒲生村や桜井村における小作地率の高さはいったいどのような生産構造の反映であろうか。前述の反当収量の変化でみたように、蒲生村でも反当生産量は漸進的に上昇する傾向はみえるが、停滞的性格はまぬかれえないのである。大正元年の越谷地域小作慣行調をみると、明治末期五ヵ年における小作料率は一毛作上田で五二・二%、中田五〇%、下田四七%、二毛作上田で六三・三%、中田六〇%、下田五二・六%、一毛作上畑で二六・三%、中畑で二四・九%、下畑で二四%である。畑小作料は金納と大豆・大麦の現物納とに大別されるが、小作料は上下さまざまであり、蒲生村は金納でかなり小作料率としては低廉である。田の小作料率は平均五四・三%で、小作料は一石五升八合である。全国の小作料率は明治四十三年で六一・〇%、大正九年五一・五%であり、小作料は明治四十年の関東六県平均で一石二斗である。東北六県では一石二升という数字が示されている。
大正十年の桜井村小作慣行調によっても、最近五ヵ年の反当小作料は田で八斗八升三合で、小作料率は五五・二%である。小作料の大正八年と十年における関東六県平均は九斗九升から一石一斗であり、東北六県平均は九斗五升から一石一升である。以上の比較から示されたことは、蒲生・桜井、両村において若干の差はあるものの、小作地率の高さの反面には小作料ないし小作料率の低さということがあるのである。これは停滞性をもつ米穀生産力の反映でもあろう。低生産力のもつ経営上の特質が、農家経営において手作化・自作化への方向を困難たらしめ、その結果、耕地が大量に小作地として貸付けられたのであり、一般的に小作地率の高さとなってそれらが現象するのである。その意味で蒲生村などは一つの典型を示すものであろう。