農事試験場越ヶ谷園芸部の開設

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明治期後半の農村は、政府の農業振興政策の推進に促され、農産物の改良や新品種の開発に努めてきた。しかし大正四年から実施された米穀検査制度により、稲作の改良はことに差迫った緊急課題となった。このため米穀生産地域である越谷地域の各村々は、大正五年十一月「農事試験場稲作分場設置」の請願書を県知事宛に提出した。これによると、稲作農事試験場は、大里郡深谷町に置かれていたので、埼葛地域の農民が、当所へ見学に行くには泊りこみとなり、試験場を利用するのは困難である。したがって越谷地域に試験場分場を設置してもらいたいというのが主な理由であった。

 その後この分場設置の運動は越ヶ谷町を中心とした天領行政事務会によって押し進められたが、大正九年には越ヶ谷町内に試験場を誘致することがきめられ、この目的達成の運動費として一町村三〇円宛の資金が集められた。かくて県当局や県会議員に陳情をくりかえすとともに、同年九月越ヶ谷町をはじめ出羽・蒲生・大沢・増林・新方・桜井・大袋・荻島の各町村は、再度にわたって「農事試験場分場急設」の請願書を県知事に提出した。その結果同年十月の臨時県会で農事試験場園芸部の越ヶ谷開設が可決された。

 そこで越ヶ谷町は、越ヶ谷町字二番地と字花田にかかる耕地(現在の越ヶ谷高等学校グランウドの辺り)のうち、田一町六反五畝一〇歩、畑三反四畝二七歩を金六四五四円八〇銭で買収、大正十年九月これを県立農事試験場越ヶ谷園芸部の敷地として県に寄付した。県では早速園芸部の施設を整備、大正十一年十一月十五日、知事をはじめ貴族院議員・衆議院議員・県会議員・各農会長・各町村の関係者参列のもとに開場式が盛大に挙行された。同時に別会場では、埼玉県園芸共進会褒賞授与式が行われるとともに、町民の歓迎旗行列なども催され、この日の開場式を一段と華やかなものにした。

 この式典の諸経費は、総額一二六〇円余であったが、このうち越ヶ谷町が六〇〇円、大沢町が一〇〇円、郡農会が一〇〇円、協賛各村のうち出羽村ほか四ヵ村が各七五円、桜井村ほか二ヵ村が各五〇円、このほか有志の寄付金一〇〇円の負担で賄われた。この経費の内訳は折詰三三〇個六六〇円、酒二合罐三三〇本一三二円、特別饗宴費一六六円、箱入菓子二〇〇個一〇〇円、風呂敷地一二反五六円余、記念盃三五〇個二四円余などとなっていた(開所式書類)。

 こうして開所した越ヶ谷園芸部は、野菜や花卉栽培を中心に、品種の改良、品種の比較展示、肥料の肥効試験などを行い、農事改良に多大な成果を収めてきた。ところがその後越谷地域における都市化の進行、それに分場敷地の手狭などにより、昭和四十二年四月越ヶ谷と上尾の園芸部試験場を合併し、新たに久喜町に移された。そして越ヶ谷試験場の跡地は現在越ヶ谷高等学校グラウンドの敷地になっている。