農事改良の進展

524~525 / 1164ページ

越谷市域の明治後期からの農事改良は、行政指導や農会等の努力によって大正期にも引続き継続された。耕作組合による耕地整理と結びついた稲作改良事業、肥料の共同購入や米穀検査、農事試験場分場の誘致などがその一環である。大正期において農事改良の中心となったのは、村農会と共に農事改良組合である。越谷市域各村で大正十三年までに組織された農会は、桜井二、新方一、増林一、大袋一、荻島三、出羽一六、川柳五、大相模一、大沢一の計三一組合である。出羽四、大沢一、大袋二、大相模一の八組合は、大正三年頃に新設され、他は当時既設のものである。他に養蚕組合は新方に一、養鶏組合は荻島一、出羽三、農家保険組合が川柳に二と設置されていた。

 このうち桜井村農事組合は、大正六年二月十一日に埼玉県、大正十二年二月十一日には南埼玉郡から成績優良で表彰をうけた。桜井村の農事組合は農用動力機と脱穀機を導入し、村内組合員に指導をなし、農事改良によく努力したが、特に多収穫を心がけ、蔬菜・切花などの栽培をし、東京へ販売している。また大正十三年の「優良農事組合一覧表」に載せられたのは、荻島村の小曾川農事組合と立野農事組合である。その事業は、小曾川農事組合は各種指導地、各種採種圃、共同購入販売、農事視察をなし、立野農事組合は各種指導地、栽培改良、相助共済、各種採種圃、良種の普及研究会の開催、実地視察、共同選種、自給肥料生産、共同貯金、肥料共同購入と配合、風俗改善、敬神思想涵養、副業の奨励、組合事務所建設と、多彩な農事改良の事業を進めた。桜井村の農事組合は、桜井村農会の指導のもとに、稲作の品種別試作や裏作試作あるいは畑栽培、園芸栽培の試作、堆肥生産等の肥料研究などの事業を大正後期におこなっている。

 しかし農事改良の努力にもかかわらず、大正九年の経済恐慌による農村への打撃と農家経済の困難は深刻であった。大正十二年十二月に南埼玉郡農会通常総会は、農工間の不均衡是正の方策を租税公課においてとり入れないと農村振興のみならず「農業者ノ思想上、農村ノ経営上」真に憂慮する事態となるとして、農務省の新設と米麦価格維持の二つの建議案を、政府に対しておこなった。農務省新設の建議は、農務省を新設し農業に関する一切の事務を統轄して農村振興を図るとするもので、また米麦価格維持建議は、関東大震災に対する応急策としてだされた米麦輸入税は正米市場を混乱させ、米価下落を招いているものであるので、すみやかに米麦輸入税を回復して米価安定策をとり、食糧政策を安定させよとするものであった。また同年十二月に、埼玉県知事から「町村農会ノ活動促進方案ニ関シ会ノ意見ヲ諮フ」諮問に対する答申案が郡農会から出された。(越谷市史(五)九〇頁)その基本は、

  一町村農会ノ経費ヲ充実スルコト

  一各種農業関係事業ヲ農会系統ニ於テ整理統一スルコト

  一町村農会技術員ノ設置普及並ニ其ノ素質ノ向上ヲ計ルコト

  一農事実行団体ヲ奨励スルコト

で、特に補助金の増額が説かれていた。