真田生産

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大正三年五月二十四、五の両日、『埼玉日々新聞』は「県下唯一の副業、麻繋ぎと真田紐改革時機到来す」との記事を連載した(越谷市史(六)四五六頁)。織物の不振と養蚕・桑園の規模些少なるため、安定した利益をえる副業とはなしがたいが、最近副業の地位を高めてきたのは麻繋ぎと真田紐であると説き、その産業の将来を論評した。当時、北足立・南埼玉・北葛飾・北埼玉郡の四郡に、埼玉経木麦稈真田同業組合が設けられており、郡内の経木麦稈麻真田及び麻繋玉生産とその問屋業・製造業・仲買業・周旋業・原料売買業、帽子製造業兼卸商業の各業者の加盟による同業組合をなしていた。この同業組合は第一~九区に分けられ、越谷市域は草加町、鳩ヶ谷町とともに第二区に編成されていた。組合事務所は粕壁町に置かれた。経木麦稈真田業は、農村家内手工業から農村手工業工場制への中間的段階にあり、また両者は相互補完関係にあった。

 大正初期まで県下の農家副業では老幼婦女子が家庭で手内職としておこなえるものとして麻繋玉があった。織物・養蚕等の不振衰退にかかわらず、麻繋玉は東武鉄道沿線町村の重要な副業としてさかんになった。真田紐は機械で麻繋玉に加工し製造するので、その手工業工場に家内副業の麻繋玉製造は連結するのである。したがって一~二台の機械により真田生産の全工程をおこなう家内手工業もまた多かった。この麻繋玉と真田の産額は、前述の四郡で前者は二五〇万円、後者は五〇万円、合せて三〇〇万円で、前者は全国産額の四分一にのぼったという。販路は輸出がほとんどであった。真田紐の販売価格は原料代金の約三倍が普通であったという。『埼玉日々新聞』は外貨を獲得する好副業と評価している。しかし製品の隘路として指摘されたのは品質の統一性と信用性であり、この改善が必要とされている。これが大正三年頃の生産事情である。

 南埼玉郡の麦稈真田、経木真田等の大正五年の生産総価額は一八万四七四六円であるが、大正十年にはマニラ麻真田の産額は零となり、経木真田の産額も一五七二円、麦稈真田も四五〇円となり、大正五年における製造戸数六七も僅か六戸、職工数も三八八人から五一人と激減する。大正十五年は経木真田の産額八四七〇円と生産増があるものの、麦稈・マニラ麻による生産はなく真田生産規模からいえば大正五年の規模には及ばない。真田は輸出向けであっただけに大正九年恐慌の影響をまともにうけたのである。