明治三十年代までの埼玉米は、東京市場において取り引きの標準米とされていたが、その後品種改良の立遅れ、乾燥調整の不良、俵装の粗雑などにより、劣等米として排斥されるようになった。埼玉県の農業関係者はこれを憂い、米穀の品質改良を説くとともに、その方法として米穀検査の実施を県会に陳情した。
この結果県では大正四年四月、県令をもって米穀検査規則を公布し、同年七月から検査を実施することになった。検査は生産米検査、移出米検査の二種に分け、乾燥・調整・品質・粒形・容量および俵装を調べて合格不合格を決定し、合格の等級も生産米は良否に応じて甲乙丙の三段階に分けられた。また移出米検査は県外に移出する生産米検査済の玄米について検査を行うもので、合格の等級は一等から五等までの格差が設けられ、籾・粃(しいな)・屑米・砕米・稗など一切除去され一俵四斗入と定められたきびしいものであった。県内には浦和・川越・松山・本庄・熊谷・忍・杉戸に米穀検査支所が設けられたが、主要な町村には出張所が置かれた。越ヶ谷町にも同年八月十日出張所が開設されて移出米の検査が実施されたが、その管轄区域は、越ヶ谷・大沢・桜井・大袋・荻島・出羽・蒲生・大相模・川柳・増林・新方の二町九ヵ村であった。
しかしこの米穀検査実施の結果、もっとも打撃を蒙ったのは、実際の耕作者であり、しかも検査をうける立場の小作農層で、実質的に二割方の負担増になったといわれる。このため埼玉県では地主に対し、実際の検査受人である小作農に「奨励米」を交付し、検査米に対する労費の補償を行うよう指導したが、この補償米は、一俵につき合格米甲米に対し米三升、乙米二升、丙米一升の割で支給された。
さらに大正十年になると、穀物の検査は米穀ばかりでなく麦類にまで適用され、それまでの米穀検査所の名称は穀物検査所と改められた。このうち大麦の一俵あたりの正味は屑麦などを除き正味一四貫目、小麦と裸麦は一六貫目と定められたが、麦類の場合も一俵につき合格米甲麦につき三升、乙麦につき二升の奨励麦が付された。当時農業不況下に喘いでいた小作農の負担は、この米麦検査によって一層増進し、その生活さえも脅やかすものであったので、なかには穀物生産検査法は悪法だとし、大正十一年十一月、北埼玉郡中手子林村のごとく、検査の撤廃を請願するところもあった。この撤廃の理由として、(1)検査があるためその労力上二毛作ができない、(2)一反歩あたりの俵装に三人以上の労力増が費やされ、それだけ生産能力を減退している、(3)老人や婦女子だけの農家では、小作も自作もできない惨状を呈している、(4)農業経営は割の合わないものだとして、農村の多くの青年は転業したり、出稼ぎにでたりしている、(5)検査を受けなければ収穫した穀物を売却できないので、都合のよいときに取り引きできない、したがって生産農家は大きな不利益と不便を蒙っているなどの条々を挙げていた。
このため県では産麦検査に限っては、希望検査に改めようとしたが、県会の反対に遭い、わずかに俵装については古俵の使用を認め単俵検査の時期を延長する程度の改正しかできなかった。