小作問題

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大正四年から実施された埼玉県の米穀検査制度は産米改良や俵装改良等により小作人の負担を増すものとなった。第一次世界大戦後の一九二〇年(大正九)の恐慌後、二七年(昭和二年)の金融恐慌にいたるまで日本経済は慢性不況におちいり、特に農村経済は途中に若干のもちなおしはあるものの悪化の道をたどった。大正九年恐慌によって農産物価格の低落をまねき、その後やや回復するものの低落傾向は依然として続く。農産物はその価格が低落しても供給は容易に減少しないとの生産上の事情が、一般物価との差をひろげ農村経済の地位を低下させたのである。翌大正十年の凶作と産麦検査実施とはこの傾向に拍車をかけるものであった。このため全国的に農家ことに小作農の生活困窮が表面化してくる。地主層においても大正九年恐慌による打撃、米価低落による小作料収入の減少、三町歩以上所有層の減少と五反~三町歩、特に一~二町歩層の増加という傾向(『日本農業基礎統計』等による)により解体傾向があらわれてくる。

 こうした農家経済悪化の過程で、小作人層はしきりに小作料の軽減を要求し、やがて小作争議が頻発するに至る。しかも米騒動後の社会情勢の変化とあいまって、小作争議は二十年恐慌の年には一躍前年の四倍にふえており、各種の農民運動組織も結成されてきた。埼玉県の小作争議は大正十年に七四件と金国六位に達し、大正末年までこの傾向は続く。

 越谷市域においても小作争議が発生している。大正十年十二月に埼玉県からの指示により南埼玉郡長は県知事に小作問題に関する調査報告をおこなっているが(越谷市史(五)八三七~九頁)、それには、郡内の小作米の納入は少いもので四、五割、多くは八、九割済んでおり年内に完納の見込であると述べたあと、小作争議に関する状況を全町村にわたって述べている。郡長の判断では小作争議発生は今後ないだろうとしているが、争議未発生の町村を、発生が懸念されるところと懸念の必要がないところとに分けて、各町村長・農会長に防止策を指示した旨を報告している。争議発生が懸念される町村には、奨励米の増給、小作料の減免、俵装料の増給、金融上の便宜、その他小作人保護の方法をたてる様に指示し、懸念がない町村には経済的便宜等の保護方法をとるよう指示したわけである。しかし、小作米納入が完了しつつある時期に、小作人保護につき、余り具体的方策をとると地主層の反感をうけるのではないかということと、他の社会勢力の介入を危険視している旨を追記している。

 さらにこの報告書には、当時郡下で小作争議中の町村は清久村・小林村・菖蒲町・三箇村・篠津村・大山村の一町五ヶ村であり、清久・大山両村は三箇・菖蒲両町村と運動上のつながりがある旨を記している。小作争議がおさまった町村は、粕壁町・川通村・武里村・桜井村・川柳村・大相模村・越ヶ谷町・慈恩寺村・鷲宮村・栢間村の二町八ヵ村であり、ほとんどの争議の原因は小作料減免の問題であるとしている。また小作争議発生が懸念される町村として太田村・増林村・河合村・鷲宮村をあげている。