郡長報告により争議解決をみたと報告されている越ヶ谷町の争議は、同町小作人一五〇名のうち四〇名が、大正十年十一月十二日夜、町内の観音堂に集合し、本年度米穀不作につき小作料二割の減免の要求をまとめ、町農会長に地主側への斡旋方を申し出たことに始まったものである。この争議の発起者は四五~六五歳の者六名で、何れも「極メテ下級ノ小作者」(埼玉県立文書館蔵『小作関係』)で、学歴は小学校卒業程度であり、「社会主義者ノ如キモノニハ無之、将タ敢テ同主義者ノ如キモノノ後援ノ存スルモノニモ無之認ラレ」(同前)るとされていた。この争議の妥結条件や解決経過は不明である。
また川柳村の場合は、同村内柿木一二〇名の小作者は、十月下旬から個々に小作料の減額を地主側に申入れていたが埓があかず、同十一月、東漸院境内薬師堂に代表二〇名が参会、米一石当り平均二斗宛の減額、もしくは反当り米一俵宛、三年間無利子による貸与を要求することを決議した。これに対し地主側は個々の減額申入れには、ある程度応じてもよいが、多数結束し力をもって要求するのは不穏当でこれに応じる訳にはいかない。ここで小作者の結束に屈すれば、付近町村の先例となって悪影響をおよぼすであろう、といっている。一方警察では、問題を起している柿木の小作者は、一般に純朴さを欠き、主に河川工事その他の日雇稼業で生計を立てている者が多いので、自然農業に熱心ではない。したがって収穫米の少ないのは事実であるが、危険思想者が裏面でこれを煽動している様子もない。現在慎重に内偵中であると、これを報告している。結局柿木では、来夏の端境期に、地主側から米を貸与するという条件で一応解決をみたようである。
また増林村の場合は、同村花田の小作人四五名が同盟し、越ヶ谷町の地主に小作料の減額を迫ったものである。すなわち越ヶ谷町の地主側は、同年六月、穀類の値下りを理由に、従来畑一反歩あたり麦六斗、大豆四斗の小作料であったのを、麦は一石に値上げ、大豆は三斗にして穀納とすることを通告した。これに対し小作者側はこの通告を不満とし、小作者集会を開いて協議した結果、大豆の穀納は了承するが、麦は七斗に引下げることを主張することにきめた。しかし地主側はこれに応せず、強く引下げを要求すれば、小作地を残らず取上げるという強硬な態度にでたため、紛争は持久戦の様相を呈した。この問題点は地主側が一反歩当り平均金八円程度であった金納小作料を穀納に改めようとしたところから生じた。これに対し小作者側は結束してこれに抵抗したため、地主側はこの対策として小作入付業務を越ヶ谷町農会に委託し、攻撃のほこ先を農会に向けさせようとした。その後の経過は不明であるが、伝えによると、小作者側のなかには耕作を放棄して抵抗を示した人びともあり、地主側はまたこの耕作放棄の畑に植林をして対抗し、紛争は長期にわたったといわれる。
このような耕作放棄の典型的なものには、南埼玉郡大山村上大崎(現菖蒲町上大崎)の小作者同盟がある。すなわち同同盟は、大正十一年十月、小作料一割の永久減額が認められなければ、小作地を全部返還すると決議したが、地主側がこの減額に応じなかったため、小作地九〇町歩を放棄、さらに、
一、国・県・村税ヲ納入セザルコト
一、就学児童ハ退学、奉公セシムルコト
一、青年団員ハ脱退スルコト
一、軍人分会員ハ脱退スルコト
一、村農会員ハ脱退スルコト
との申合せを行っていた。これに対し南埼玉郡長は、「小作者が全部土地を返還すれば、外に適当な職はない、機業に走っても賃銀は低廉でしかも交通の便も悪い。河川工事に職を求めてもこれまた付近に工事の施工はない。そこでついに無為徒食ができないのを自覚し、同盟は分裂を生じるであろう。この頃をみはからい村当局は、調停の時期を考慮致居候」と大要このごとく述べている。