農民運動と農地の解放

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ともかくこうした小作者間の強固な結束は、一つには農民運動指導者の働きかけがあったものと警察ではみていた。すなわち南埼玉郡に頻発する小作紛争に関しては、「東京市ニ於テ開業ノ弁護士古島義英ナルモノ、郡内各地ニ出没、小作人ヲ煽動シ小作人組合設置ヲ宣伝シ、動モスレバ争議ノ因ヲ助成セント努メ居ルヤノ聞アリ」と警察では述べている。なお古島義英はのち、立憲民政党に所属したが、埼玉県第四区から立候補して当選し代議士を勤めている。

 ともかくこの古島義英や鈴木文治などの活動により各地に小作人組合が結成されたが、大正十年にはいち早く小作人組合の連合機関「南埼北部最愛会」が誕生していた。同会の趣意書によると、「旧来ノ因襲的弊風ヲ撲滅シテ時代的思潮ヲ涵養シ、財政上将来ノ安定ヲ期シ、国家民力ノ増進ヲ図ラサルベカラズ」と述べ、そのためには「組合ヲ連合シテ大同団結シテ、社会圧迫ス誤解サレツヽアル農事労働ヲ根底ヨリ匡救シ、労働者ノ社会的権能ヲ発揮シ」、種々の弊害を打破し社会の圧迫から農民を救わなければならないとしている。しかしこのように昂揚した農民運動は、南埼南部越谷地域までは波及しなかったようである。

 一方当時思想界を風靡した人道主義的風潮の影響で、地主のなかには自ら進んで農地を解放する人びともあった。このなかの一人に増林村の関根宗輔を挙げることができる。関根宗輔は大正十一年、小作地合計四〇町歩のうち、田畑一一町余を希望する小作者に譲渡している。警察の調査報告によると、関根宗輔は「居村付近ニ於ケル名望家ニシテ数十万ノ資産ヲ有スルモノナルガ、本人ハ(中略)、所謂新旧思想ノ衝突ノ結果モ其ノ一因ヲナシ居ルヤモ難計ナランモ、結局同人ハ通常現今ニ於ケル社会生活問題ヲ大観シ、近時労働問題又ハ小作争議等ノ各所ニ頻発スルハ、畢竟土地所有者ノ平均ヲ得ザルニ起因スルモノナルコトヲ憂慮シ居タリ」と述べ、すでに分譲登記済のもの二町三反七畝二五歩、登記手続中のもの約三町五反歩、希望申込のもの六町歩である。

 この譲渡面積は一人当り六反歩から最少三畝歩で平均二反歩、譲渡価格は田一反歩当り平均七〇〇円、畑同じく五〇〇円で、時価より三割方低い価格である。しかも代金は米の収穫後の後払いとし、なかには三ヵ年賦としたものもある。

 こうした農地分譲の動機としては、「此ノ挙ニ出タルハ同氏ノ熟慮シタル結果ナランモ、又一面ニハ実弟二名(一名ハ東京、一名ハ岩槻在)アリ、此等ノ人々ガ来訪ノ都度、現下ノ農村社会問題タル小作問題ニ関シ、地主ノ執ルベキ対策ヲ種々注入シタルモ其ノ一因ヲ為シタルナラン」とみており、また分譲に対する世評としては「村内ノ小作人ハ勿論、自作人モ同氏ガ今回ノ挙ニ出タルハ、自覚セル地主ナリト称シ非常ニ喜ビ居レリト云フ」とこれを報告していた。