小作調停法は大正十三年七月に公布、十二月に施行され、昭和二十六年の民事調停法制定により廃止されたものである。小作調停法は一九二〇年(大正九)恐慌後の地主制の矛盾と小作争議への政府の対策としての小作組合法、小作法、自作農創設事業への動きが実現しないため、いわば応急的に大正十三年に制定施行されることとなった。そして昭和十三年の農地調整法の制定にいたるまでの間、政府の小作問題に対する対策としては唯一の機関であった。同法は小作争議発生の場合に当事者または所在地の市町村長、郡長の申立により地方裁判所がその裁判官を主任とし、地方裁判所長によって選任された名望のある調停適任者三名以上を調停委員とした委員会が争議の調停をおこなった。同法により小作官の制度も定められている。この法について当初は地主側は賛成、小作側反対の態度であったが、のち小作人側もこの法を積極的に利用するようになり、地主の恣意的な要求に制限を加える作用も果した。
埼玉県では大正十三年十月に郡役所を通じ各町村長に調停委員候補者選定に関し、大正十三、四年度調停委員候補者名簿を同月末日まで報告するよう指示している。
指示は地主および小作人に公平になるよう、また特に候補者名の外部への漏洩なきよう注意をしている。小作調停法施行直前の十一月下旬に県知事は郡長・市長・警察署・分署長に対して訓示を発している。それによると、政府が小作調停法を制定した趣旨として、小作争議の頻発は一日も放置するを許さぬもので応急策が緊急に必要であり、「小作争議ハ素ヨリ各種ノ原因ヨリ起ルモノニシテ、当事者ノ経済上ノ主張ヨリ延イテ思想ノ背馳、感情ノ衝突ヲ来シ、農村ノ不安ヲ惹起スルコトアリト雖モ、其ノ多クハ小作料ノ問題ヲ中心トスルモノニシテ、畢竟経済上ノ困難ヨリ来ルモノ」(大正十三年「荻島小作調停法ニ関スル書類他」)であるから、農業収益を向上させる施設をおこなうと同時に収益の分配を時宜に適する様に公平におこなう方法が必要であったからであると述べている。この調停法を実効あるものとするため、小作調停委員会の調停結果は裁判所の和解と同一の効力を付したのであり、また「民間有志者及官公吏ノ尽瘁ニ依ル事実上ノ調停」(同前)の利益も併せて期待し、いわゆる勧解も奨めていることを同法により強調し、郡長等の小作問題解決への尽力を訓示している。更に訓示事項、指示事項、注意事項をくわしく達しているが、争議にあたってはなるべく申立をさけて融和的解決を奨励しており、また同法の規定にある地主・小作人団体等の団体的行動の認めざることの確認をおこなっている。
大正十三、四年度の小作調停委員は埼玉県は浦和裁判所で選任され、川越市一〇名、北足立郡一五名、入間郡一四名、比企郡一四名、秩父郡一〇名、児玉郡一三名、大里郡一四名、北埼玉郡一九名、南埼玉郡一一名が名簿に登載されたが、越谷市域からは大袋村・出羽村・大沢町から一名ずつ選任された。このほか南埼玉郡の村からは、武里村・太田村・河合村・慈恩寺村・内牧村・八条村・和土村・鷲宮村から一名ずつ選任されている。