産業組合法の改正

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明治三十三年三月七日公布、九月一日施行の「産業組合法」は、組合の種類を信用・販売・購買・生産の四種とし、購買事業中に生計に必要な物の購買をみとめた。つまり消費組合的機能の必要を認めながらも、消費組合の独立がなく農業保護政策の意図を前面にした法律であった。組合事業において政府は所得税と営業税の免許を組合にあたえ、また農工銀行からの資金融通の法的根拠をあたえるなど、明治後期に展開する資本主義経済への農業の対応―農民保護を意図したのである。越谷市域における明治後期における組合事業や成立された組合は、第一編第四章第五節(二二〇頁)に述べられている。

 産業組合法に直接関係ある法律の改正は、明治三十九年四月の産業組合法の第一次改正(信用組合の兼営が認められ、産業組合の中心をなす信用組合が他種事業を総合的に経営することが可能となる)、明治四十年四月の農工銀行法・北海道拓殖銀行法改正(産業組合法による組合へ無抵当貸付が可能となり、四十年以後有限責任の組合が増加する)、明治四十二年四月の産業組合法の第二次改正(購売組合の加工業を認め、信用組合に予約加入の制を設ける)、明治四十三年四月の日本勧業銀行法の改正(産業組合や同連合会に加入していない単位組合に無担保貸付をすることと預金部地方資金の供給)、大正六年の産業組合法第三次改正(市街地信用組合が認められたこと、信用組合と生産組合の業務範囲の拡張が可能なようにしたこと、信用組合連合会は所属組合等の日本勧銀・北海道拓殖・農工銀行に対する債務保障をできるとしたこと等)とおこなわれ、明治末年~大正初年には産業組合の組織網が全国に普及した。

 埼玉県では当時三二〇余の産業組合が設立されていた。県では大正三年より零細組合を整理し未設立町村のないよう指導したが、十三年には四四〇組合にのぼり、南埼玉郡での未設町村は一ヵ村を数えるまでにいたった(『埼玉県議会史』)。

川柳村信用組合竣工式