東武鉄道の利用

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大正八年までの東武鉄道停車場は、越谷地域ではまだ蒲生と越ヶ谷(現北越谷駅)の両駅しか設置されてなかった。当時越ヶ谷駅到着の上り浅草行は、午前七時三四分の始発から午後八時一七分の終車まで八本、下り伊勢崎方面行が午前七時三分の始発から午後九時一七分の終車まで九本の運転回数であった。

 この年間乗降客を、たとえば『埼玉県統計書』により、大正七年度でみると、越ヶ谷駅が乗者者数一二万余人、降車者数が一二万三〇〇〇余人でこの総旅客運賃は三万二二八五円、貨物は発送荷六七〇九トン、着到荷は八六五五トンでこの運賃は八〇四九円である。蒲生駅は乗車者三万九〇〇〇余人、降車者三万七〇〇〇余人でこの運賃は八九六六円、貨物は発送荷四〇八トン、着到荷一五六九トンで運賃は六〇一円であった。

 このうち貨物の取扱い数量は、両駅とも他地方からの移入荷が発送荷を大幅に上まわっているが、全体としては鉄道利用の貨物量は少なかったようである。これには、「概して鉄道貨物量の尠ないのは、中央との物品取引が、綾瀬川の船舸に依るためである」と、『越ヶ谷案内』にも記されているごとく、貨物輸送の多くは綾瀬川の舟運にたよっていたからとみられる。また鉄道による発送品は、藁縄・桐細工品・米・醤油が主なものであったが、このうち縄・莚はほとんど鉄道便が利用された。このほか安行(現川口市)から移出される花卉や苗木類は、蒲生駅に運ばれてここから鉄道が利用されている。一方鉄道便による移入荷は、肥料・桐材・砂利などが主なものであった。