越ヶ谷町の停車場誘致運動

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明治三十二年の東武鉄道開通当初は、停車場の誘致に積極的でなかった越ヶ谷町も、その後商工業者を中心とした町民の間から、産業の興隆や町の発展には、交通運輸のかなめともいえる停車場の設置が必要であるとの要望が高まった。こうして大正八年五月、「当町ニ於ケル運輸交通ノ便益ノ増進ト経済的発達ヲ助長セント」(「停車場新設期成同盟会書類」)の目的のもとに、越ヶ谷町長を会長とした町民有志による停車場新設期成同盟会が結成され、積極的な誘致運動がはじめられた。かくて東武鉄道との交渉が進められたが、その結果相互協議による停車場開設要項が示された。この要項は次のごとくである。

(1)停車場ノ位置及設計ハ東武鉄道株式会社ノ定ムル所ニ依ル事

(2)当町ハ金壱万六千円ヲ東武鉄道株式会社ニ寄附スル事

(3)当町ハ停車場開業前、国道ヨリ停車場ニ通スル幅四間以上ノ道路ヲ新設完成スル事

(4)当町ハ当町商工業団体、若シクハ商工業者ヲシテ相当事由アラサル限リ、全部東武鉄道株式会社ト貨物運送ノ契約ヲ締結セシメ、之レカ保証ノ責ニ任スル事

(5)東武鉄道株式会社ハ、可成速ニ停車場設置ニ関スル準備ヲ進メ、工事ニ着手シ営業ノ開始ヲ為ス事

 そこで停車場新設期成同盟会では、この要項に示された第二項による東武鉄道への寄付金一万六〇〇〇円を、とりあえず日歩二銭の利息割合で、中井銀行越ヶ谷支店から五〇〇〇円、氷川貯蓄銀行越ヶ谷支店から五〇〇〇円、日進銀行越ヶ谷支店から六〇〇〇円の融資をうけ、同年五月二十六日に鉄道側に納入を済せた。

 この銀行借入金の返済は、同盟会員の寄付金によって各自が銀行に振込まれたが、同年六月には早くも一万二〇〇五円が各銀行へ納入されていた。ちなみにこのときの大口寄付者は、一三一〇円の会田善次郎を筆頭に、一〇九三円の山崎長右衛門、八一七円の小泉市右衛門、七一三円の白鳥喜四郎、五〇〇円の遠藤平吉、四九四円の仁科仁兵衛、四九三円の井橋太郎兵衛、三八〇円の会田吉五郎、同じく三八〇円の有滝政之助、三五六円の松本紋蔵、三四四円の会田太助、三一三円の有滝竜雄、三〇三円の鈴木源兵衛、二五〇円の遠藤弥一、二四〇円の田中吉之助、二一七円の荒井麟之助などであったが、このほか合名会社中井銀行越ヶ谷支店の二〇〇円、帝国電燈会社越ヶ谷営業所の一五〇円、それに一円、二円の寄付者を含めると、その数は二二〇口に及んでいた。

 また停車場の新設にあたっては、停車場構内や鉄道貨物用町立農業倉庫、ならびに「要項」第三項にもとづく道路造成のための敷地を必要としたが、これらに充てられた用地は田畑八三筆一町六反三畝二〇歩であった。この土地の収用には反対者もなく順調に買収が進められたが、地主に対する保償価格は、南町裏と柳田が一反歩あたり五〇〇円、柳原は同二五〇円と協定された。このほか耕作者には一反歩あたり金一〇円の趣意金が支払われ、同年八月早くも停車場の新設工事、これにともなう道路の造成工事がはじめられた。

 かくて翌九年四月、新停車場や駅前道路の造成が竣工し、同月十七日の開業日を期し停車場構内において盛大な祝賀会が挙行された。祝賀会場には緑のアーチが建てられ、まばゆいばかりの電燈装飾がほどこされた。場内には商品陳列場が設けられ、相撲や神楽なども興行された。さらに町内では小学校生徒による旗行列や、青年団主催の仮装行列、それに提灯行列などが行なわれ、町を挙げて終日賑いをみせた。

 なおこの停車場新設に要した諸経費は『決算関係書類』によると、総額一万八八二〇円五五銭、このうち一万四〇三五円五〇銭が同盟会員による寄付金、四五〇〇円が町費からの補助金、二八五円余が預金利子によって賄われた。一方支出は一万六〇〇〇円が東武鉄道への寄付金、八九八円余が銀行からの借入金利子、八七〇円余が停車場開通祝賀式費、六七八円余が停車場新設記念碑建設費、二七五円余が敷地耕作人への趣意金その他となっている。このなかに地主への保償金が含まれていない理由は不明であるが、あるいはこの用地も寄付という形をとったのかも知れない。