新設越ヶ谷停車場の利用

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越ヶ谷町内に設けられた停車場は、「越ヶ谷停車場」と名付けられたため、大沢町に設けられていた越ヶ谷停車場は「武州大沢停車場」と改称された。新設越ヶ谷駅の開業で、乗降客や貨物輸送の利用は越ヶ谷駅が中心になった。たとえば大正十年度でこれをみると、越ヶ谷駅の年間乗降客は乗車者一四万二五一九人、降車者一四万〇九八一人でこの運賃四万七一六七円、貨物は発送荷が六一八三トン、着到荷が一万三九五九トンで、この運賃は九五五〇円である。これに対し武州大沢駅の乗降客は乗車者六万九五五〇人、降車者六万四九二九人で運賃は二万二一六一円、貨物は発送荷九八九三トン、着到荷六八〇五トンで九八一二円、蒲生駅は乗車者四万一三七一人、降車者三万八三九八人で九八七八円、貨物の発送荷は一一〇六トン、着到荷は三八七九トンで一三一六円である。

越ヶ谷駅開設式の祝辞

 この頃では乗降客は越ヶ谷駅が武州大沢駅のおよそ二倍の利用数を示していたが、貨物の取扱い高はまだ武州大沢駅が越ヶ谷駅のそれを上まわっていた。これが大正十五年になると、越ヶ谷駅の発送荷は八二〇七トン、着到荷が一万四六六六トンに増大、逆に武州大沢駅は発送荷二八三九トン、着到荷七四七五トンとのび悩み、その割合は大きく逆転している。しかも乗降客は越ヶ谷駅が乗降合せて六二万三二六三人に対し、武州大沢駅が一〇万八〇六〇人であり、六倍以上の旅客が越ヶ谷駅を利用していたのである。

 なお越ヶ谷駅の開設と同時に、東武鉄道は駅前から鉄道用地にそって県道鳩ヶ谷・越ヶ谷線に通じる道幅八尺から九尺の(約二・六m~三m)連絡路を造成したが、その後人馬や諸車の通行が頻繁となり、危険であるとの理由から、大正十年六月越ヶ谷町長は東武鉄道に対し、さらに道幅六尺ほどの拡張を請願していた。おそらくこの連絡路が現在のごとき道幅に改められたのは、この請願の結果であったろう。また東武鉄道は、大正十一年五月に、北千住と久喜間を復線に改めたが、同十三年から電化を進めていった。さらに大正十五年十月には、大袋駅と一ノ割駅を新たに開設した。