乗合馬車と人力車

557 / 1164ページ

大正期の乗合馬車は、越ヶ谷吉川間、大沢野田間、越ヶ谷浦和間に運転されていたが、この運賃は大正五年当時越ヶ谷駅(現北越谷駅)前から松伏まで片道八銭、大相模不動尊まで一〇銭、吉川まで一四銭、野田まで一五銭、大門まで二〇銭、浦和まで三五銭の料金であった。

 大正九年、越ヶ谷町に越ヶ谷駅が開設されてから、まず越ヶ谷吉川間に乗合自動車が運転されるようになったが、はじめは自動車と馬車が乗客の争奪戦を演じ、狭い道を馬車が悠然と走って乗合自動車に道を譲らず、自動車をほとほと困らせたといわれる。その後乗合自動車は各路線に進出し、乗合馬車は次第に姿を消していった。

 また人びとは人力車を多く利用したが、同年代、越ヶ谷駅からの片道人力車賃をみると、久伊豆神社まで一五銭、野島地蔵尊、大相模不動尊、及び松伏までが二五銭、大門まで三五銭、岩槻まで四〇銭、野田まで五〇銭で、一里あたり一六銭の料金率になっていた。