武陽水陸運輸会社の設立

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瓦曾根溜井通りには、河岸問屋が軒をならべ、藤田材木店(現藤田医院)前には、常に数え切れないほどの大八車が河岸船の荷上げを待っていたといわれたほどの盛況を誇った元荒川通り瓦曾根河岸は、夏季の水枯れや寄洲の推積その他で船の航行が不自由となり、急激に衰退した。

 これにかわって日光街道に面して地の利を得た綾瀬川通り蒲生の藤助河岸が、越谷地域の水運の中心となった。このような好況を背景にした藤助河岸は、武陽水陸運輸会社という新設会社によって買収され、大正二年四月資本金五万円の株式会社として発足した。経営内容は綾瀬川を利用した舟運事業とともに、荷車などによる陸上運送や倉庫の貸付業務なども取扱った。ことに貨物の輸送では、東京に出荷される岩槻町の白木綿・蚊帳地・胡麻油・蔬菜類、粕壁町の薬種実・醤油・味噌・米・麦・胡麻油、越ヶ谷町の米穀・藁縄・莚類・味噌などの多くは、同会社の船舶が利用されたので、年間の出荷高は一万八〇〇〇余駄、着荷は二万駄以上に及んだという。こうした舟運の繁昌は、同会社の運賃が、東武鉄道貨物運賃のおよそ三分の一、それに積下しなどの荷扱いの破損が鉄道便より危険が少なかったことによるものといわれる(『越ヶ谷案内』)。このほか、従来から密接な関係をもち続けた越ヶ谷町商人と荷車引との相互関係を一朝にして断ちきることができなかったのもその一因であった。

 大正三年十月、東武鉄道と丸ト運送店(現東武通運)が、越ヶ谷町米穀肥料商組合に対し、東武鉄道利用による貨物輸送を勧誘した結果、組合側では米穀の輸送を舟便から鉄道便に切替えることに大勢は傾いた。この先米穀肥料商組合側は、越ヶ谷町から蒲生村の武陽水陸運輸会社までの荷車運賃を、一車金六銭から五銭に値引きするよう車力側と交渉を重ねていた。ところが東武鉄道による米穀輸送の話しが伝わると車力側の態度は硬化し、同月十二日の越ヶ谷町市日には、車力側が一斉罷業でこれに対抗した。

 このため米穀肥料商組合側は狼狽し、急拠粕壁町より荷車引を呼よせ、越ヶ谷町からの移出米穀を大沢町の越ヶ谷停車場へ運搬させて、これを東武鉄道の車輛に積込ませた。こうして一車一一七俵入六車の米穀をなんとか東京向けに積出すことができた。その数日後、車力側との運賃値引き交渉は再開されたが、結局一車六銭の車賃を五銭に引下げることで両者は妥協し、従来のごとく越ヶ谷町の米穀は蒲生村河岸場から舟運を利用することになった。当時は舟便の方が、鉄道便よりも、時間的にも手数上からも軽便迅速であったと、埼玉新聞はこれを報じていた。

蒲生の旧河岸場

 しかし大正九年、越ヶ谷駅の新設後は、東武鉄道と取かわした停車場設置の「要項」に示されていたごとく、越ヶ谷町の貨物はすべて鉄道便によらねばならなかったので、武陽水陸運輸会社を通した舟運の利用は、この頃から激減したとみられる。さらに昭和に入ると貨物自動車の普及などで、その利用は極度に低下し、下肥船を除いた舟運はますます衰退の一途を辿った。