大落古利根川等の改修

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大落古利根川の改修工事は、大正八年度から昭和六年度にかけて施工されたもので、支川を除いて本川の水路改修については、中流域の青毛堀合流点から吉川町上流新庄内古川の中川合流点までの間が行われた。このうち当市域に関係する部分は、現在増林の河原崎から吉川町榎戸を迂廻し、中島の籠場で中川に合流している地点の改修を行なったことである。この部分は戸賀崎(現三郷市)の中川曲流箇所とともに、中川七大曲りの一つに数えられていた箇所であった。

 はじめの改修計画では、増林村下組の香取神社地先から増森を分断し、中島の籠場へ直接に疏鑿する設計であった。しかし、地元増林村の強硬な反対にあい、増森の河原崎から吉川町榎戸を貫通して中島に至る現在の流路に変更されたのである。このため榎戸は新しい川によって吉川町と分断され孤島のごとき形になった。その改修時期は史料不足のため正確には解らないが、榎戸から新川に架せられた「新川橋」が大正十二年十月の竣功であるので、この古道改修は大正十年頃から同十二年にかけての施工であったと思われる。この施工によって当時盛業であった増森の哂業は、曲流の改修で川水の利用ができなくなり、以来深井戸を掘って操業を続けたが次第に衰微し、現在哂業を続けている家は全くなくなってしまった。

 このほか、十三河川改修では元荒川・綾瀬川の水路改修が大正八年度から昭和九年度にかけて施工されたが、当市域については大規模な浚渫工事を除いては、直道改修は行われていない。もつとも大正五年十一月、綾瀬川通り出羽・蒲生・新田の各村は、金右衛門新田から九左衛門新田にかけての、綾瀬川流路の模様替えを埼玉県に請願していた。その理由は、「綾瀬川の上流数ヵ所の屈曲地点が、近年新川開鑿で直道に改修されたため、下流沿岸の水田地域は急激な悪水の漲流をうけ、稲作の被害が増大している。したがって北足立郡新田村大字金右衛門新田地先、東武鉄道綾瀬川鉄橋下から、同村大字九左衛門新田に至る屈曲部分に新川を疏鑿、この地域の水害を防除したい」という趣旨であった。ただしこの請願はその後も遂に実現されることはなかった。

 なお現在、大間野町五丁目の一部が草加市長栄町に、逆に草加市の一部が同じく綾瀬川の対岸大間野町五丁目、同四丁目に入組んでいるが、この境界線は、大正から昭和初期にかけて綾瀬川の直道改修は行われていなかったので、この時生じたものではなく、おそらくこの境界線は古い時代の綾瀬川改修によって生じたものであったろう。

古利根堰(「葛西用水路沿革史」より)