教育財政

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市町村の予算のなかで、教育費の占める割合は、明治三十三年に授業料が廃止されて以来、きわめて大きかった。第32表にみるように、大正二年市域の増林村、蒲生村、出羽村はそれぞれ村費の経常支出総額に対して教育費の割合は五四・〇%、四五・九%、四六・八%となっており、そのほか大相模村では四〇・二%となっている。すなわち、村の予算のなかで教育費の占める割合はきわめて高いことがわかる。

第32表 村予算中経常支出に対する教育の割合
増林村 蒲生村 出羽村
経常支出 教育費 割合 経常支出 教育費 割合 経常支出 教育費 割合
大正2 3,951 2,136 54.0 3,139 1,443 45.9 4,100 1,921 46.8
4 4,757 2,312 48.6 3,944 1,620 41.0 4,947 1,852 37.4
6 5,442 2,638 48.4 5,401 2,178 40.3 5,550 2,306 41.5
8 9,517 5,501 57.8 9,980 4,607 46.1 10,795 3,922 36.3
10 15,989 7,829 48.9 15,900 7,018 44.1 14,428 5,712 39.5
12 18,155 10,727 59.0 15,556 7,873 50.6 17,911 7,321 40.8
14 19,851 10,934 55.0 15,540 8,981 57.7 18,461 9,710 52.5

(越谷市史(五)より作成)

 また、この年の桜井尋常小学校における予算をみると、総予算一五八二円八四銭、収入は村費負担が一五七七円三二銭(九九%)で、一方支出では教員俸給が一二八四円(八一%)でほとんどを占めた。しかし、大正三年に第一次世界大戦が勃発するとわが国はかつてない好景気にみまわれ、諸物価が高騰し、ついに七年には米騒動の発生をみるほどになった。したがって、こうした状況下では、教員を志望する若者は少なく、人材の確保が急務となった。

 その頃、わが国は、いわゆる〝大正デモクラシー〟の嵐が吹きあれ、自由主義的思潮が国内にあふれていた。しかし、政府はこれらに対処するため、内閣総理大臣の諮問機関として臨時教育会議を大正六年設置し、種々の諮問を行なった。そのうち、小学校教育については、人材確保のために市町村立小学校の教員の俸給の増額と市町村義務教育費国庫負担に関する答申がなされ、翌七年には制度化された。さらに八年には諸物価高騰のため各種官吏の俸給が臨時的に増額されたため、小学校教員についても同様の措置がとれるよう国からの指導がおこなわれた。

 こうした背景によって、市域の村々の教育費も大正二年に比較して、大正八年には約二倍から三倍に増大した。村々への教育費国庫補助は、当初は教員数、児童数に比例して配分していたものを、大正十二年には、市町村の資力等により配分し、特に資力に乏しい市町村には特別の補助が支出された。

 しかし、国庫補助金が市町村教育費に対して充分支出されたわけではなく、それぞれ市町村は苦しい予算を立てねばならなかった。

 いま、大正八年一月、丁度、八年度予算の編成期にあたって、南埼玉郡役所から郡内の町村に達せられた通牒をみると、町村吏員や小学校教員の待遇を高め、相当の人材を確保するよう特に配慮することが達せられている。

 これに対して桜井村では、八年度の予算は前年度に比して三八円五七銭(一四・五%)を増額し、臨時手当も一三・五%出すことを報告している。

 しかし、このような配慮も、物価騰貴には追いつけず、同八年七月、再び郡役所は通牒を発した。これには、内務大臣の訓令を示し、物価騰貴から教員の生活安定を守るよう、そのための手段を講ずるよう指示している。すなわち、平均捧給が二五円に達しないものは、それ以上にすること、臨時手当を他の官吏なみに五〇%に増額することなどをあげ、これが実施を同年九月よりとすることが達せられたのである。

 だが、教員の生活は安定せず、教員相互に助け合おうとする運動がおこり、やがて大正十四年には財団法人埼玉県教員互助会の設立をみるに至るのである。