実業補習学校から公民学校へ

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義務教育六ヵ年を卒業した児童、あるいは高等小学校二年を卒業して中等学校へ進まない児童を対象として実業教育と補習教育を行う実業補習教育は、市域においても、既に明治期に数校の設立をみている。

 すなわち、明治四十二年に組合立実業補習学校(翌年廃校)、出羽村立実業補習学校、大相模村立実業補習学校、同四十三年に蒲生村立実業補習学校がそれぞれ設立されていた。

 ところが、大正期に入ると、いわゆる大正デモクラシーの影響のもと、青年層の政治的運動が活発化して来たため、政府は、これに対応して、青年団活動の指導に乗り出した。その方法の一つとして実業補習学校の充実がある。そして国は大正九年規程改正等を行い、国が国庫補助を行うよう改正するとともに、教育内容を従来の実業教育中心から公民教育を中心に行うよう改めた。こうして、全国的に実業補習学校の設立が奨励された。市域においても、大正九年に、大沢町・荻島村・大袋村に、大正十一年に越ヶ谷町にそれぞれ実業補習学校が設立された。

 このうち、越ヶ谷町立商農補習学校は、特色があり、他がいずれも農業科を中心とした実業補習学校型であるのに対し、町内がほとんど商人である越ヶ谷町では、商家の子弟を対象とするため、科目の中に商業科目を採用し、校名も前記のようにしたわけである。

 すなわち、設立申請書によれば、当時町内戸数六百三十戸のうち商業が四一〇、農商兼業が二一三という状況であった。また、併設された越ヶ谷尋常小学校には、町内の子弟が商売の忙しい六・七・八月、十一・十二・一月以外毎夜六時から九時まで登校し、五人の先生からそれぞれ勉強を教えてもらったわけである。生徒数は本科・研究科合わせて一二〇名であった。いま、教授内容を紹介すると第33表のとおりである。

第33表 越ヶ谷商農補習学校の教授内容
前期 後期 研究科
1学年 2学年 1学年 2学年
学科目 毎週時数 課程 毎週時数 課程 毎週時数 課程 毎週時数 課程 毎週時数 課程
修身 1 道徳要旨 1 1 国民道徳作法 1 1
公民 2 公民心得 2 法制,経済大意 2 2 1
国語 4 普通文ノ読解及綴方 4 4 4 2 日本文典
数学 2 日用諸計算 2 2 2
理科 2 理科大意 2 2 2 1 実験
商業 2 商業ニ関スル一般知識 2 2 2 1
農業 2 農業ニ関スル一般知識 2 2 2 1
体操 2 体操,教練,剣柔道 2 2 2 2
17 17 17 17 9

 さて、先にも若干ふれたように、大正期も半ばを過ぎると、実業補習教育の教育内容は「忠良ナル臣民」を育成する公民教育を行うよう変質したが、本県では、国のこうした方針を先取りする形で、大正十三年二月規程改正を行い、実業補習学校を一斉に「何々市町村立公民学校」とするよう改めた。そして、教育内容においても修身科を修身及公民科と改めた。しかし、公民学校を規程する法律はその後もできなかったので、いずれも実業補習学校の一種であったことに変りはなかった。

 越谷市域でも大正十三年七月に蒲生村立公民学校が誕生したのに続いて、同十四年には全ての実業補習学校は公民学校に改められたようである。

 なお女子に対する実業補習もしだいに行われるようになった。一般的には実業補習学校の中に女子部が設けられるのであるが、独立して設立される場合もある。例えば市域でも女子生徒のみを対象とする越ヶ谷町立越ヶ谷実践女学校が大正十五年四月一日設立された。

 これは、やはり越ヶ谷尋常高等小学校に併設され、生徒定員は一二〇名、職員六名であった。教育内容をみると、男子を対象とした商農補習学校と同様、町内の女子を対象とするため、実業科目は裁縫を中心としながらも商業科を採用し、特に英語まで年四十時間教えている。授業時間は年間を通して午前八時(九時)より午後二時(三時)までの終日である。このように女子にあっては、夜間でなく昼間、しかも年間を通じて開校しており、現在の各種学校的性格を有していたといえよう。