東武農業学校の開校

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第一次世界大戦を契機として工業生産を中心にわが国の産業は飛躍的に発展した。こうした近代産業の形成に対応して実業教育の必要が叫ばれ、県下各地にも実業学校が設置されていった。こうした社会情勢の中で、越ヶ谷町外七ヵ町村(越ヶ谷町・大沢町・大袋村・蒲生村・出羽村・荻島村・新方村・増林村)では、実業学校設置の必要を痛感し、大正七年の九月から十月にかけて各町村会で実業学校設置のための学校組合設立を協議した。

 この協議に基づき、同年十二月七日には学校組合会が召集され、組合立の乙種農業学校設置の件が決議された。最初の構想ではこの組合立の農業学校は尋常小学校卒業程度を入学資格とする修業年限五年の甲種農業学校にしようとし、これに修業年限四年の実科女学校を付設しようとするものであった。しかし、実際には前述の組合会に上程された段階では、甲種を乙種とし別に実科女学校を付設せず、同校の女子部としている。当初の計画がどのような事情で変更されたかは解らないが、他の県下の組合実業学校が、当時ほとんど乙種であったことからして、県の慫慂などがあったものと思われる。

 この学校は、校名を「越ヶ谷町外七ヵ町村学校組合立東武農業学校」と称し、大正八年四月、既設の組合立高等小学校内に開校した。学則によれば、同校は「乙種農業学校ノ程度ニ依リ農業ニ従事スル者ニ須要ナル教育ヲ為スヲ」目的とし、教科を分けて本科男子部、女子部とし、男子部にのみ本科の上に研究生をおいた。生徒定員は本科は男子部、女子部とも一二〇名で、研究生は若干名としている。修業年限は尋常小学校卒業程度を入学資格とし、本科は三ヵ年、研究生は本科を卒えた者がさらに一ヵ年学ぶこととされた。はたして当初何名位の入学者があったかは解らないが、大正八年の「埼玉県統計書」によれば、九年三月一日の在学者は男三八名、女一二名であることからして、さほど多くの志願者がなかったことがわかる。

 その後大正十年の「埼玉県統計書」によれば、学級数は本科男子部三、女子部二、教員数は有資格者四名、無資格者二名(男女各一名)、生徒数は男子四九名、女子二〇名とある。なお、この学校の女子部の設置とともに、明治四十二年以来組合立として運営されてきた裁縫女学校は、大正八年三月三十一日をもって廃校された。さらに同十一年四月一日からは同校の名称は組合立の冠称を廃し、単に東武実業学校と呼称されることになった。なお、前項で述べたとおり、大正十五年四月一日から越ヶ谷実践女学校が開設されることにより、この農業学校の女子部が廃止されたか否かは解らないが、昭和二年から農業学校の学級数は三学級とあることから見て(埼玉県統計書)、多分女子部は廃止されたのではないかとも考えられる。

 同校の教科内容をみると、その学則に定めた学科目と毎週の教授時数は第34表のとおりであり、国語・数学・理科のほか、養蚕・作物・園芸など農業関係の授業時数も多い。

第34表 東武農業学校の学科目と毎週教授時数
第1学年 第2学年 第3学年
修身 1(1) 1(1) 1(1)
国語 6(5) 4(4) 4(3)
数学 5(4) 4(3) 3(2)
理科  5  4  3
地理歴史  2  2  2
法制経済  ―  ―  2
体操 1(1) 1(1) 1(1)
土壌肥料  ―  2  2
養蚕  2  2  2
作物  2  2  3
園芸  2  3  3
畜産  1  1  1
実習 無定時 無定時 無定時
家事  (2)  (2)
裁縫  (12)  (12)  (14)
農業  (4)  (4)  (4)
27(27) 27(27) 27(27)

( )内は女子,実習は男女とも

 しかし男子部三ヵ年の普通教科と実業教科の授業時間を比較すると、普通教科五二時間に対し実業(農業)教科は二九時間で、乙種実業学校であっても普通教科を重視していたことがわかる。これに対して女子部は普通教科は二七時間と少なく、家事裁縫が四二時間と圧倒的に多く、農業教科はわずか一二時間で、当時は女子教育ではいかに家事裁縫が重要視されていたかがわかる。