大正期に入って青年団体の組織化は一層強力におしすすめられたが、これらの中には明治末期から大正初期にかけての憲政擁護、藩閥政権への打破といった政治運動の影響を敏感に受けとめ、これに参加する動きがみられるようになった。これに対して内務省は、大正二年九月、こうした活動を強く規制し、さらに大正四年九月には、内務・文部両大臣の訓令によって青年団を「青年修養ノ機関」と規定し、青年をして「健全なる国民、善良なる公民」とすべき旨が達せられた。同時に「青年団体ノ設置ニ関スル標準」を示し、青年団設立の基準を示した。
県では、こうした国の指導のもとに、まず青年団体の実態を把握すべく、四年十一月八日県下町村に「青年団体ニ関スル実績調査」を依頼した。これに対して、市域の蒲生村では蒲生村青年夜学会(明治四十五年二月創立)について郡長へ報告している。すなわち会長は蒲生小学校長で、会員は約九五名となっている。しかし、この会は冬期間のみであって、いわゆる青年団のごときものではないと報告している。
ただ、この報告は不十分だったようで、再調査がなされ、同年十二月、再報告がなされている。これによると、蒲生村の茶屋・見田方・上茶屋の三組からなる三友会が報告されている。この三友会は、大正二年十月創立され会員相互の親睦を謀るとともに智徳の啓発、風俗の矯正、勤倹貯蓄を行い、産業の発達を図り、公共事業に尽力するというものである。さらに、会員が二種類あって、正会員は区域の戸主とし、青年会員は男女一五歳以上の青年となっている。調査時点では正会員五六名、青年会員二〇名となっている。また、事業としては、会員が毎月三〇銭の貯金を行う貯金部、会員中耕作地三反歩以上の持主が集まって農事全般にわたって事業を行う実業部、このほか青年会員を対象とした教育部がある。以上のようにみてくると、これは青年会とは言いながらも、いわゆる地方改良運動の推進団体的性格が強いことがわかる。
このほか、蒲生村の瓦曾根地区にも年齢満一五歳以上四〇歳未満の有志者によって組織された瓦曾根青年会があったが、年齢的にみても、また、事業内容からも三友会によく似ているところから、三友会同様地方改良運動の推進のための組織であることが窺える。こうみてくると、先きの報告のとおり、蒲生村にはいわゆる青年団は存在しなかったのである。
そこで、県は、大正五年二月に「青年団体規程準則」を達した。これによると、「青年団」という名称を用い、会員も年齢一二歳以上二五歳未満の男子と規定した。また、事業についても修養に関する講話、学術の補習、武術の練習等は必ず行い、他は随時行うものとされた。
こうして、大正五年末には県下には小学校長を団長とする青年団が三一一団体誕生し、南埼玉郡では、郡の連合青年団の設立がみられた。そして、幹部の講習会も開催された。例えば、大正八年には、南埼玉郡青年会の主催で、岩槻、越ヶ谷、久喜の各小学校を会場として、八月中五~六日間開催されている。荻島村からは、二〇歳前後の幹部青年四名が参加した。
しかし、ややもすれば、国・県・村といった行政機関の指導で速成された感の強い青年団も大正九年頃を境として自主的活動がみられるようになり、しだいに自分達の推挙した団長を推戴する団体が増加した。そして、市域でも、大正十五年桜井村に創立された桜井村青年団では、団長、副団長は各支部役員の団員中より推選することが団則に明示されている。
一方、女子青年を対象とする処女会は、大正七年、県が設置標準を示し、その設立を呼びかけたが、その設置標準によると、尋常小学校卒業者から未婚者を持って組織するものとされ、従来の既婚者を含むものとは異なっている。さらに、指導者には小学校長などを当らせるものとしている。こうした指導の結果、大正九年、県の行なった調査によると、県下一四五団体のうち、小学校長を会長とするもの一三七という状態であった。
市域の処女会については、大正十三年二月十一日、荻島村処女会が紀元節の式終了後、荻島村立尋常高等小学校で創立総会を挙行したことがわかるのみで、不明な点が多い。