電話通話の開設

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明治四十一年四月、越ヶ谷町郵便局は、公衆電話通話の事務を開始するについて、越ヶ谷町長にその必要な施設や物件の費用金三〇〇円の寄付を要請した。越ヶ谷町長はこの寄付願を認め、六五名の関係者から寄付を募ったが、鈴木銀行の鈴木兵右衛門らのほかは、遠藤弥市・山崎恭助・小泉市右衛門ら主に越ヶ谷町民の寄付者が多く三二一円の創設資金が集められた。

 越ヶ谷郵便局では、この資金をもとに、電話通話施設の一切を東京郵便局に委託した。この主な経費内訳は、檜電柱三本五四円のほか、四〇〇磅(ポンド)、六〇磅鉄線・角鉄・クロミックソルト・磁石電鈴・二重碍子・茶台碍子・扇形転換器・錫蝋・硅銅線・各種腕木・ストラツプ真棒同座金などの機械材料一七七円九七銭、施設のための職工傭人給料一一円五五銭、材料運搬費四円九六銭などであった。かくて同年七月二十日、東京・越ヶ谷間の電話通話が開始されたが、翌四十二年十一月、電話通話交換業務も開始され、特設電話の架設をみるとともに電話の加入者も増大した。

 ちなみに大正五年までの電話加入者は四七名を数えたが、このうち一番は越ヶ谷局公衆通話、二番が日進銀行越ヶ谷支店、三番が瓦曾根の中村彦左衛門、四番が越ヶ谷町の山崎長右衛門、五番が同町の小泉市右衛門、六番が同じく万寿屋呉服店会田善次郎、このほか宮内省埼玉鴨場が一二番、越ヶ谷警察分署が一三番、越ヶ谷停車場(現北越谷駅)が一九番、帝国電燈株式会社越ヶ谷営業所が二九番、出羽村役場が三〇番、武陽水陸運輸株式会社が三七番、中井銀行越ヶ谷支店が三八番、越ヶ谷町役場が四二番であった。また、このときの遠距離電話料金は、大宮・浦和・粕壁・岩槻・野田への通話が金一〇銭、呼出料も同一〇銭、久喜・幸手・千住それに東京への通話が一五銭、呼出料は一〇銭、横浜への通話が二五銭、呼出料は一五銭となっていた。

 なお、当時の越ヶ谷郵便局の郵便集配区域は、越ヶ谷・大沢・大相模・蒲生・出羽・荻島・大袋・増林・桜井の二町七ヵ村であったが、町内は一日四回の集配、町外は一日一回ないし二回の集配回数であった。このほか電信業務は、以上の二町七ヵ村のほか、新方・松伏領・吉川・新田・川柳・戸塚・大門の各村、それに新和村の一部地域が越ヶ谷郵便局電話業務の担当区域であった。