電灯の普及

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明治に入ると家庭用の灯火は行燈からランプに移ったが、さらに明治の後期には、ランプに変わり電灯が普及していった。こうしたなかにあって、越ヶ谷町を中心とした近隣町村の有志は、明治四十四年、当時東京市京橋区日吉町に本社をもつ帝国瓦斯電灯株式会社、後の帝国電灯株式会社に対し、越ヶ谷営業所の誘致を運動した。この結果同会社は越ヶ谷本町三丁目に進出、電灯布設の工事を進め、大正二年九月に営業を開始した。

 当時の点灯状況を、八島晃正著『越ヶ谷今昔物語』によってみると、当初の点灯戸数は越ヶ谷・大沢両町で三〇〇軒ほどであり、五燭光一灯一ヵ月二三銭、一〇燭光同四〇銭、一六燭光同六二銭の電灯料であった。この料金は当時としては決して安いものでなく、人びとは電灯の引入れをためらったが、町の有力者は主な民家や商店へ個別訪問をして電灯の引入れを勧誘して歩いたという。またランプを使い慣れた人びとにとっては、その照明度は五燭光でじゅうぶんであったが、ことに農家の人が越ヶ谷町に買物にきた際、電灯の光がまぶしいし、第一みなりを照らされ、はずかしくて困ると苦情がでるほどであった。当時東武鉄道もまだランプで走っており、汽車が停車場へ着くと、駅員が汽車の屋根にのぼりランプを取換えていた。また警察の署長官舎もしばらくはランプであった。このなかで、署長官舎へは、警察の威厳にかかわるという申入れにより、県に交渉してとくに一灯を点じたという。

 ともかく同会社の電力は、利根発電株式会社から供給をうけ、その受電容量ははじめ一五〇キロワットであったが、この越ヶ谷営業所の営業区域は、越ヶ谷・大沢・吉川・蒲生・大相模・出羽・新田の各地域にわたっていた。ついで大正五年当時の電灯利用戸数は二五〇〇軒、動力九〇馬力の需要に増大していた。その後八条・彦成・松伏領・増林・新方・桜井・武里・大袋各村にも送電が拡大され、電灯利用戸数は飛躍的に増大していった。

 ちなみに桜井村に電灯布設工事が施工され、電灯がともったのは大正十一年七月であったが、同村昭和十八年の電灯普及戸数をみると、総戸数四二九軒のうち点灯戸数は三八二軒、無灯火戸数は四七軒で、その普及率は約九〇%に及んでいた。