越谷地域の名所

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明治時代越ヶ谷町の山本梅塘が、越ヶ谷地域の景色を賞して越ヶ谷八景を設定した。すなわち瓦曾根の帰帆・水神の落雁・東福寺の秋月・久伊豆の暮雪・柳原の夜雨・大相模の晴嵐・寺橋の夕映・天嶽寺の晩鐘がそれである。当時越ヶ谷町長はこの自然の絶景を利用し、越ヶ谷公園の設置を主唱したといわれる。大正期に入り、柳原の楊柳は伐り採られ、東福寺の老松も倒れてその風景はいちじるしく損じられた所もあるが、蜒蜿たる瓦曾根溜井の長堤は、日露戦捷記念の桜樹が成長し、その水色は一段と画趣をそえたといっている(『越ヶ谷案内』以下特に断らない限り同書による)。

瓦曾根堤の桜(原与四郎氏提供)

 また越谷の桃林は、江戸時代から著名であったが、大正期においても大袋村の大林と大房の桃林は、「小丘起伏し、一望麦圃菜園の上紅霞相むらがる花と水と草と小家との配置は美妙である」と表現されていたごとく見事なものであったようである。ことに大林の桃林は、

  地積が広大で且つ傾斜があるから、花より水、水より村、村が霞んで迥(遥)かに仰がるる上毛、秩父の連峰紺青に晴れわたる白日の野景は、到底筆舌の及ぶ所ではない、一度び丘松の間、赤毛布の床几に腰うち下して、農人を相手に一献傾けなば、恐らく身は天外に遊ぶの思ひがあろう。

  桃の盛りには東武線は賃金の割引をして春を追ふ享楽の人を吸引する。また大房・大林とも桃林の中に茶店床几を配置して、甘党には芋田楽、団子などを売り、酒の肴には鮒料理がある。ちなみに大袋村に於ける桃の収獲高は、大正三年度七千五百石、価格一千八百七十五円である。

と述べられている。また江戸時代出開帳などで広く信仰を集めていた野島山地蔵尊は、「維新後全く衰頽を来したが、大正二年現住職石井徳峯師当山を護るに及んで深く之を遺憾として、霊験の事蹟を挙げ布教に努めた結果、二、八月の廿三、四日恒期大開帳には参籠する者再び多く、東武沿道の一名刹として東京より参詣する信徒も益々増加しつゝある」とこれを紹介している。

 このほか大房浄光寺の古梅園については「老梅数百株、鶯の宿とするには余りに広く、然も余りに幽趣に乏しい」としながらも、都人士の来り遊ぶ者が多く、古梅園の開園中には東武線の割引乗車券が発行されていた、とある。久伊豆神社に関しては、「例年九月廿八、九、三十、三日間御大祭を執行し、廿八日は午前中幣帛供進使として郡長御参向、祭典を挙行したる後御神輿市内を渡御、祭り年番町の御仮殿に奉置し、廿八・九日両夜御泊、三十日本社に還行するのであるが、三日間は各町内花車を曳出し、囃子屋台を建てゝ頗る賑かである。右之外四月九日太々神楽祭典を執行し、十月卅日には御庭燎の神典あり、十二月十五日」には縁起市が開かれるとあり、同境内の藤花園については、その広さおよそ六〇〇〇坪、

  古杉老松の間、太々殿の西面に九百余坪の古神池があって藤の老幹は池辺を這ひ水上に蔓りて、藤棚は実に百四十余坪の広さである。晩春の候一度び開花すれば花房は五尺から六尺の長さに垂れ、紫雲は靉靆として池上に棚引く。池心の噴水はかしこの丘陵上に亭々として茂り重なる松柏の青嵐に和して水玉を散らすも面白く、数知らぬ鯉魚の水面に〓〓し、柴葩の美を弄ぶ如く、四顧悉く背景の妙を尽している。

とその有様を賞讃していた。

大房浄光寺の古梅園
久伊豆神社(昭和33年撮影)