江戸時代六〇石の朱印寺として、七堂伽藍を誇った大相模の大聖寺は、明治維新に朱印地を取消され、さらに明治二十八年七月九日、山門と鐘楼を残し、大小一二棟の堂宇はことごとく焼失した。その後本堂は仮建築で再興されたが、一時ははなはだしい寂れかたであったという。しかし当時の住職高岡隆円の努力により、明治末期から大正期にかけては、その参詣者は激増した。ことに例年二月二十八日と九月四日の御会式には、東京などからの参拝客が雲集し殷賑をきわめるようになった。
また同境内には高さ一丈三尺、幹廻り八尺、樹齢六〇〇年の神木「御座の松」や、樹齢七〇〇年の「十善梅」同五〇〇年の「四恩梅」をはじめ「千代梅」「神光梅」「飛竜梅」「三光梅」「東照梅」などと名づけられた古梅が配置された梅苑そのほか藤園などがあった。ことに同境内の御座の松・十善梅・名誉藤を撮影した三葉の写真は、大正元年十一月、大正天皇に献上されたという由緒をもったもので、花の頃訪れる参詣客は少なくなかった。それでは大正三年三月における大聖寺の観梅状況を、同月九日付の『埼玉新報』によってみてみよう。
南埼玉郡越ヶ谷在大相模村真大山境内の梅は、今や盛りと咲揃ひ居るより、同山講中互親講にては、去る五日講員三百六十余人同日午前十時卅分浅草駅発、特別臨時列車に搭じ十一時越ヶ谷駅に着し、本山に練り込みたるが、其順序は先頭楽隊にて、次いでは浅草芸妓十四名、自動車にて乗り込みたるより、沿道これが盛況を見んと人を以て埋められたり、かくして十一時四十分本山に乗り込みたる連中は、各自充分の歓を尽し午後一時よりは余興として剣舞及芸妓の手踊りあり、其間十善梅の前方にて記念撮影をなし、又四時よりは本堂に於て大護摩の修行あり、同五時帰途に就きたるが、当日雲集せし善男善女は約六、七千にして頗る賑ひたり、
特別観梅会 野口宝徳居士の発企にかゝる特別観梅会は六日開催せり、余興には浪花節あり、大師堂に於て正午より山主高岡師の法話あり、梅花の由来、梅花と信仰等に渉り熱誠なる話しありて、夫より折詰弁当を配付し、二時より護摩修行御札供物を配授して、四時三十分頃より思ひ/\に退散せり、
観梅囲碁会 昨八日近郷近在の同好者は、同山に於て観梅大会を開きたるが、出席者七十余名にして頗る盛会なりし、
宝徳講の観梅 十日は宝徳講員八百余人の大観梅あり、開帳大護摩修行し御札供物并折詰瓶酒等配授し、又種々の余興あり、管主高岡師の法話もある由、殊の外盛会ならん、
観梅と大角力 東京護宝講員は、十二日四百余人の大観梅団体にて同山に参詣、午前十一時開扉大護摩修行し、正午より同講より奉納の東京尚武会の大角力あり(同会力士五十名余来山午後四時)、とび入り自由にて景品は皆同講員携帯せらるゝことなれば、一大盛観なるべし、
とあり、西方大聖寺境内観梅人の盛況ぶりを報じている。