大正十四年、普通選挙法は難産の末、悪名高い治安維持法と抱き合わせで制定された。これによって直接国税三円以上の納入者のみという衆議院議員の選挙権に関する財産上の制限は撤廃され、全国の有権者数は、三三〇万人から一躍一二五〇万人に増大し、国民の政治参加の道が拡大された。たとえばこの拡大された有権者数を、蒲生村でみてみると(『蒲生村勢要覧』)、衆議院議員選挙有権者が一六二人から六五五人に、県会議員選挙有権者が一九七人から六四八人に、村会議員選挙有権者が四五七人から六四八人にそれぞれ増大している。
しかしこの普通選挙法では、婦人の参政権が認められなかったばかりか、男子でも選挙権は満二五歳以上、被選挙権は満三〇歳以上という制約が付されていた。しかも選挙にあたっては、無産政党の進出を阻止するため、立候補者の供託金は二〇〇〇円という高額なものであった。また既成政党に有利なように、買収などの選挙違反による罰則は、きわめて軽いものに定められていた。
かくて普通選挙法による初めての総選挙は、昭和三年二月、政友会の田中義一内閣によって施行された。その結果は政府の露骨な選挙干渉によって、与党の政友会が第一党になったが、無産政党の進出もめざましく、得票数は四四万余票を獲得し、民衆党四名、労農党二名、日労党一名、地方無産党一名、計八名の当選者を出した。
埼玉県ではこのとき投票区を三区に分けて一一名の議員を選出したが、その当選者所属政党の内訳は、政友会が五名、民政党が四名、中立が二名で、このときは無産政党の進出はみられなかった。このうち北埼玉・南埼玉・北葛飾の三郡を選挙区とした第三区の当選者は、北葛飾郡行幸村(現幸手町)の中立遠藤柳作、北埼玉郡大越村(現加須市)の民政党野中徹也、北埼玉郡須影村(現羽生市)の政友会出井兵吉の三名であった。その後昭和五年二月に行われた第二回衆議院議員選挙では、野中徹也・出井兵吉・遠藤柳作、それに越ヶ谷音羽町仮居住の民政党古島義英の計四名が当選した。
また埼玉県会議員の普通選挙は、衆議院議員選挙に先立ち、同年一月に行なわれたが、県下の有権者は、普選前の一二万六八七二人から二八万七五〇七人に増加したが、被選挙権を制限されていた神官・僧侶・教員・官公吏の立候補制限も撤廃されていた。なおこのときの立候補者供託金は二〇〇円である。また選挙区は一〇区に区分されたがその選挙区と定数は第36表のごとくである。
選挙区 | 定員 |
---|---|
名 | |
川越市 | 1 |
北足立郡 | 9 |
入間郡 | 7 |
比企郡 | 3 |
秩父郡 | 3 |
児玉郡 | 2 |
大里郡 | 5 |
北埼玉郡 | 4 |
北葛飾郡 | 4 |
南埼玉郡 | 4 |
この選挙の結果越谷地域を含む南埼玉郡では、日勝村の渋谷塊一(政友)、鷲宮村の本多慶雄(政友)、蒲生村の清村善蔵(政友)、出羽村の大野伊右衛門(民政)の四名が当選した。なおその後の県会議員当選者を示すと、第37表のごとくであるが、昭和十五年に改選された県会議員は、戦局の緊迫にともなって任期が延長され、昭和二十二年まで継続して議員を勤めた。
昭和7年 | |
本多慶雄 | (鷲宮村) |
飯野喜四郎 | (綾瀬村) |
清村善蔵 | (蒲生村) |
大野伊右衛門 | (出羽村) |
昭和11年 | |
井出門平 | (出羽村) |
本多慶雄 | (鷲宮町) |
飯野喜四郎 | (蓮田町) |
森田兼吉 | (菖蒲町) |
昭和15年 | |
深井哲三郎 | (川柳村) |
曾根周次郎 | (慈恩寺村) |
平沢常三郎 | (菖蒲町) |
荻野栄蔵 | (三箇村) |