昭和の大恐慌による国民生活の不安を背景に、既成政党や財閥を攻撃する軍部を中心とした軍国主義勢力が台頭し、かれらは国民の不満を排外的・侵略的方向に眼をそらせようとした。この間昭和五年の浜口雄幸首相狙撃事件、同七年の井上準之助前蔵相射殺事件、団琢磨射殺事件など、いわゆる右翼のテロが頻発した。なかでも昭和六年九月、関東軍による満鉄線路爆破にはじまる満州事変は、以来一五年間にわたる戦争への契機をひらいたものであった。
しかもはじめ争乱の不拡大方針をとった政府の努力も、五・一五事件と称される昭和七年五月十五日に起きた犬養毅首相や政府要人に対する一部軍人のテロ行為によって挫折し、いわゆるファッショ政治の体制は進行した。このなかで、軍部の政治介入は著しく、昭和十年の「天皇機関説」事件に端を発した国体明徴運動に象徴される国家主義の嵐が吹きつのっていった。
一方国民も、政争にあけくれる腐敗しきった政界に不信感を強めていたが、昭和九年の帝国人絹疑獄事件の進展で、いっそう議会政治への不信を深めた。このようななかで、内務官僚を中心としたいわゆる「新官僚」は、軍部との結びつきを深めつつ、天皇を中心とした独裁的政治体制を画策し、昭和十年五月選挙粛正委員会令を勅令として公布した。この勅令によると、全国の市町村ごとに粛正委員会が構成され、委嘱をうけた委員を中心に、各町内会・部落会ごとに粛正会が組織されるという徹底したものであった。
このうち部落粛正会の規程を、たとえば出羽村大間野部落によってみると、その会の目的は、「公ノ選挙ニ関スル弊害並ニ棄権ノ防止、公正ナル選挙観念ノ普及、其ノ他選挙ノ粛正ヲ図ル」ものとし、事業としては(1)選挙粛正に関する講演会や懇談会を開催する。(2)選挙粛正に関する実行事項の申合せ、(3)選挙粛正祈願祭の執行、(4)その他選挙粛正に関し必要なる事業を行うとしている。そして申合せ事項としては、(1)金銭そのほか利益の供与による投票の買収には絶対に応じないこと、(2)権力や情実などによる投票をしないこと、(3)戸別訪問をしたり受けたりしないこと、(4)密かに会合して投票を勧誘したり、受けたりしないこと、などとなっている。
この選挙粛正会の規程や申合せの内容は、一見当然のことであったが、この運動の真のねらいは、選挙粛正の宣伝に使われたチラシにみられるごとく、天皇を中心とした独裁体制への浸透をねらったものであった。すなわち、「選挙は畏れ多くも陛下の御政治を翼賛し奉る国民の神聖な義務であります、したがって選挙は平時における忠君愛国の大道であります、故に我々は君国に報ずる至誠をもって、清く正しい一票を行使致さねばなりません」と強調し、忠君愛国の名のもとに、利権の追及をあさる既成政党への攻撃を強めた。
この時期の日本経済は、昭和四年以来の不況から脱し、軍需産業によって景気の回復がはかられていた。しかし都会や農村を問わず、軍需インフレの昂進によって、一般庶民の生活苦は一向に解消されなかった。また軍国主義や腐敗した既成政党に反対して運動を続けてきた無産運動も、満州事変以来のはげしい弾圧によって左派の勢力は後退し、社会大衆党や全日本労働総同盟などの右派を中心とした中道路線に統合される傾向にあった。
こうした状況のもとで、昭和十一年二月、衆議院議員の総選挙が行われたが、選挙粛正運動の結果か、それまで議会の絶対多数を占めていた政友会は大敗し、岡田啓介内閣の与党民政党が第一党になった。しかしそれと同時に、従来五議席であった無産派議員が、一挙に二四議席を獲得して予想外の進出をみせた。このうち無産派唯一の全国政党である社会大衆党から一八人の当選者を出し、軍国主義批判の高まりをみせた。
この選挙において、埼玉県第三区からの当選者は、北埼玉郡大越村の民政党野中徹也、同郡須影村の政友会出井兵吉、東京市下谷区の民政党山森利一の計三名であった。なおこのとき落選した三重県宇治山田市の門田新松は、越ヶ谷弥生町の居住者であった。