ところがこの総選挙の直後、すなわち昭和十一年二月二十六日、国政を乱すのは政界・財界などの特権階級であるとして、その打倒を動機とした同志青年将校が、歩兵第一・第三聯隊など在京部隊の兵一四〇〇余人を指揮し永田町一帯を占拠、斎藤実内大臣や高橋是清蔵相らを殺害してクーデターを企てた。この反乱部隊は三日後に鎮圧されたが、これを機会に軍部は陸・海軍大臣の現役制復活を実現させ、政治に対する発言権をさらに増大した。
ちなみにこの二・二六事件の反乱軍のなかに増林村出身の陸軍歩兵上等兵中島与兵衛がいた。これを知った増林村では、関係当局に対し村長代理助役・青年団長・青年学校長・軍人分会長らが連名で、「兵ハ平素ノ徹底セル軍隊精神教育ニ則リ、上官ノ命ズルマヽ一意是レニ従ヘルモノニシテ、其ノ衷情誠ニ憫ムベク」とて兵卒の立場を訴え、ことに「中島上等兵ハ頭脳俊敏ニシテ気象豁達、人ニ対シテ情誼ニ篤ク、直情勁行ノ質」とてその優秀さを説き、将来村の中堅人とに目されるものなので、寛大な処置を仰ぎたいとの歎願書を提出していた。なお中島上等兵は同年七月の軍法会議で、禁錮二年、三年間の執行猶予の判決をうけた。