日中戦争と選挙

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ともかく二・二六事件で退陣した岡田首相の跡をうけ、広田弘毅内閣が成立したが、軍事費重点の財政政策で悪性インフレは深刻化し、物価は異常な高騰をみせた。広田内閣は軍部の横暴に反発を示す政党の間に立ち、苦境に立たされたが昭和十二年一月総辞職、このあと陸軍大将林銑十郎内閣が成立した。林内閣は、親軍新党の樹立を意図し、突如議会の解散を宣言して第二〇回総選挙を施行した。この結果は林内閣の意図に反し、政友・民政の両党は三五〇議席を確保、また社会大衆党も三五議席を獲得、戦前の無産派進出のピークをつくった。

 このため選挙に敗れた林内閣は同年六月に退陣し、第一次近衛文麿内閣が成立した。だが同年七月の日中戦争の開始は、軍事政治に対する批判の高まりを圧殺した。なかでも無産党の拠点社会大衆党は、いちはやく戦争協力に踏みきったが、さらに日本無産党の結社が禁止されるに及び、国民はこぞって戦争体制に動員されるはめになった。

 昭和十五年五月、第二次近衛内閣は、こうした挙国体制を背景にして全政党を一丸とした新党結成を意図し、広く新体制運動を起した。各政党はこれをうけ、政党を解散して大政翼賛会に結集した。ここに一党独裁の軍事体制が整ったのである。ついで昭和十六年十二月八日、真珠湾の奇襲攻撃によって日本は太平洋戦争に突入したが、緒戦の勝利のなかで、東条英機内閣は、十七年四月衆議院議員の総選挙を断行した。これより先政府は、軍事政府にとって好ましくない議員を排除し、さらに議会の「御用化」を徹底させるため、同年二月「衆議院議員調査表」をつくり、現代議士を甲・乙・丙の三段階に分類した。そしてこの分類にしたがい、選挙にあたっては、大政翼賛会や翼賛壮年団の地方支部を動員して推薦運動を展開させた。政府の一大選挙干渉である。

 この選挙の結果、四六六議席中推薦候補三八一名が当選した。その後戦局の緊迫化から選挙は行われず、これが戦前最後の選挙となった。

 この選挙では、埼玉県第三区から東京市の古島義英(越ヶ谷町仮居住)、須影村の出井兵吉、大越村の野中徹也、星宮村(現行田市)の養田久三郎、忍町(現行田市)の松岡秀夫、東京市の新井堯爾、三重県宇治山田市の門田新松(越ヶ谷町居住)、北葛飾郡行幸村(現幸手町)の三ツ林幸三らが立候補した。各市町村ではこの選挙にあたり、県からの通達にもとづき、大政翼賛会ならびに翼賛壮年団を中心に「大東亜戦争完遂翼賛選挙貫徹運動」を広く展開、講演会や部落常会を開き、あるいは指導班を設けるなど、推薦候補の当選を期した。

 たとえば新方村役場の回覧版によると、各隣組長宛に「来ル四月五日午后正一時ヨリ、新方国民学校ニ於テ大東亜戦争完遂翼賛選挙講演会開催致スベクニ付、有権者必ズ御出席聴講相成ル様至急回覧ノ上御了承願ヒ候也、追ツテ四月五日聴講洩ノ方ハ他村会場ヘ参ルコトニナルヤモ計リ難キニツキ、何卒当日御出席下サル様申添フ、標語、大東亜築ク力ガ此ノ一票、大詔ニ応ヘ奉ラン此ノ一票、十億ガ期待シテイル人ヲ出セ」とあり、講演会の聴講もなかば強制的であったようである。かくて選挙の結果は、埼玉県第三区では新井堯爾、出井兵吉、松岡秀夫の三名がきまった。