大正十年四月法律第六三号によって郡制の廃止が布告され、この施行期日は同十二年四月一日と定められた。この郡制廃止にともない、郡役所を中心とした町村自治会は新たな動向を示し、まず大正十二年四月、大沢・新方・大袋・桜井・武里・川通の一町五ヵ村が新方領行政事務会を組織した。このうち大袋村と新方村は、立憲政友会所属と銘うった政治色の強い天領自治会を離脱し、新方領行政事務会に加入したものである。このため天領自治会は越ヶ谷町を中心に、出羽・荻島・蒲生の一町三ヵ村の構成となったが、蒲生村は従来から潮止・八幡・八条・川柳・大相模・増林の各村で構成されていた治本会に所属したので、実質的には治本会組織のなかにあった。
その後昭和二年九月、治本会・新方領行政事務会・天領自治会は、この連絡機関として南埼玉郡南部行政事務会連合会を組織したが、治本会ではとくに「政治談を避ける事」との要望を付していた。この連合会の会則によると、目的は行政事務に関する研究となっており、事務所は越ヶ谷町役場に置かれたが、その任務の一つに町村予算の相互協定などがあった。たとえば昭和四年度の予算協定をみると、町村長の報酬は月額五〇円以上、助役・収入役は四〇円以上、書記の給料一人当り平均三五円以上、使丁給一五円以上、交際費一二〇円、賞与一人当り一五円以上、正教員一人当り平均五五円、使丁給一五円、公民学校教員給料一五円以上、青年訓練所指導員給料平均二五円と定められている。
このほか従来からの慣例による入営兵引率の割当てがあった。この引率は南埼玉郡を単位に抽籤によって各連合会に割当てられたが、各連合会ではまた抽籤によって引率町村を定めた。たとえば昭和三年度、朝鮮・満州・台湾方面の入営兵付添として舞鶴行となったのは、粕壁町ほか四ヵ村で構成された東部行政事務会と、久喜町ほか一四ヵ町村で構成された北部行政事務会、大阪行は治本会と新方領行政事務会、神戸行は天領自治会と岩槻町ほか五ヵ村で構成された中部行政事務会であった。さらに各連合事務会では抽籤によって引率人を定めたが、このとき引率人に選ばれたのは、黒浜村長・武里村長・菖蒲町長・豊春村長・増林村長・蒲生村長であった。
この引率人の割当てに対しては、抽籤であっただけに不満があったとみられ、「義務的、或は犠牲的と雖ども経費を要する儀故」、改善をはかられたいとの要望が示され、輪番制を採用したところもあった。ちなみに引率旅費の総額は南埼玉郡で五〇一円八〇銭、一町村の割当額は一一円九五銭であった。