越ヶ谷町長の不正事件

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越ヶ谷高等女学校の校舎建設は、火災などで遅延し、昭和七年三月に竣功した。この学校建設の資金は町長の専決により、鴻池信託東京支店から借入れ、町債を成立させていたが、寄付金徴収の挫折から、借入金の返済に困った。このため町長は埼玉県の会計課長と共謀、知事の官印を盗用して多額な金を借りうけ、一部を借入金の返済にあてたが、そのほとんどは株相場や遊興費につかいはたした。この不祥事が発覚したのは昭和十一年十二月で、この事件はいわゆる「百万円事件」と称されて人びとを愕かした。

越ヶ谷町長不正事件国民新聞号外

 この間の事情を、「奸倭(かんねい)町村の傀儡に……鴻池信託を欺いて相場資金、死を賭け刃渡り芸」の見出をもつ十二月十八日付東京朝日新聞記事によってみると次のごとくである。

  罪の始まりは昭和四年、越ヶ谷町では町立実科高等女学校の県移管につき、十二万円を県に寄付することとなり、町長有滝七蔵がその借入れにつき、当時県庁庶務課主席属福田清次に斡旋方を申込んだ。福田はこれを鴻池信託東京支店に紹介し、同年八月町債を成立せしめた。

  この間有滝は饗応によって生来小心な福田を威圧する端緒を作った上、翌昭和五年一月、再び前記高女の県移管を理由に、今度は東京市日本橋区室町三井信託株式会社に対し十二万円の融通を申込み、有滝は町会決議録を偽造、福田に対しては協力援助を強要受諾せしめ「県」の名による債務の保証に知事の官印を盗用せしめて成功した。かくて有滝は十二万円を株式売買の資金とし、間もなく失敗したがこの返済の期限に対し、有滝よりもむしろ立場上福田が弥縫策に狂奔する有様となり、同年四月有滝と共謀の上鴻池信託東京支店に対し、「徴税完了まで埼玉県は三十万円の一時借入れをなす計画がある」とて、五月十五日自から同支店に赴きその全額を受取った。この時も福田は知事の官印を盗用し、又同県参事会の決議録を利用した。

  両名はこの三十万円のうち十二万円余りを三井信託に返済した上、福田が二万円を受取り、残りを有滝が受取り、有滝が相場で儲けて全部返す計画であった。しかしこれも失敗したので、福田も自暴自棄となり、自殺を覚悟で共謀の上、更に相場資金を得るため七年六月十六日十万円、八年六月二十七日十万円、九年五月十九日十万円、九年十二月二十日二十万円、十年十二月二十六日二十万円、十一年七月一日十万円と逐次増額借入れをなし、遂に三井信託より十二万円、鴻池信託より百十万円を騙取したが、前記のごとく三井の分は返し鴻池へも十万円返しているので、被害総額は百万円である。なお福田は増額借入れの都度一、二万円の分配に預かり、残りは利子を除き有滝が受取って居た。そして七年九月十二日、福田が会計課長となったので、会社に「今後鴻池関係の県債は総て自分が一任された。ついては従来使用した知事の印を取換えるから」と称して、以後会計課で保管する知事の支払命令の印を使用する諒解を遂げ、又参事会決議録も偽造使用してゐた。

  なほ、百万円のうち七、八十万円を有滝が主として相場に使ひ、十五万円を利子に払い、福田が受取って費消した額は約十万円と推定されてゐる。有滝は由来株式売買の経験者で、東京日本橋兜町に事務所まで設けてゐる。有滝は福田の依頼で得る豊富な軍資金で盛んに新東・日産・新鐘等の売買に乗り出していた。福田も株は好きで有滝と親しくなる前にもチョイ/\株の実物売買を行ってゐたが、有滝に接するに及んで溺れ出し、剣の刃を渡るやうな気持でゐたもので、幾度か自殺を決意したが勇気がくぢけ、それからは常に酒色にまぎらして大尽遊びをするようになってきた。浦和・熊谷・越ヶ谷の一流料亭に足繁く通ひ、札びらをまき、多数の女を囲ひ、ここ数年に濫費した遊興費は、八、九万円に達するといわれる。

 こうして警察に検挙された県会計課長福田清次と、越ヶ谷町長有滝七蔵は、昭和十四年四月、大審院判決で懲役八年の刑に処せられたが、有滝元町長は出獄後間もなく病没した。なお有滝七蔵は、越ヶ谷中町の旧家「伊勢屋」有滝本家よりの分家で、明治三十九年から同四十二年まで越ヶ谷町長を勤めた有滝政之助の養子であるが、現在その家はなくなっている。