越ヶ谷順正会の成立

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昭和初期の経済恐慌と公課(諸税)の過重から、商家をはじめ越ヶ谷町の町民は少なからぬ打撃を蒙り、呉服商万寿屋のごとく倒産して退転する豪商も少なくなかった。しかも昭和五年、越ヶ谷実科高等女学校の県立移管にともない、十数万円の負債をかかえこんで町財政は極度にひっ迫していたが、さらに町民は町政に対する不信から、敢えて町税の納入を怠っていた。

 このため町財政の危機はいよいよ深まったが、事態を憂慮した有志一同は、町政の建て直しは町税の完納からと町民を説得し、その八割にわたる人びとの支持をとりつけて納税組合を設立した。この結果税の滞納者はようやく影をひそめるにいたった。幸い昭和十年九月、懸案であった高等女学校県立移管で生じた十数万円の借財は、町債として長期返済の認可を得たので町財政の建直しに曙光がみられた。

 この間納税組合員有志は、納税に努める貧困組合員の困窮に対し、その救助手段を講じる必要を痛感、「至誠会」と称する無尽講を設立し、三ヵ年で一三〇〇円の流動資金を得ることができた。有志一同はこの資金の利用方法を協議したが、町費中例年五〇〇〇円から一万円にのぼる伝染病費の出費に着目、貧困は家族の罹病によるところが大きいことを知り、医療救助を目的とした共済組織の結成に乗り出した。

 やがて有志一同は医師団の諒解もとりつけ、「順正会」と名付けた救療事業会の計画書を県に提出してその設立許可を求めた。しかし県では、運営資金の不安定さと、法人組織でないことを理由にこの出願は差戻しとなった。そこで有志一同は資金の確保のため会費制を採用し、会員の募集に着手しようとはかったが、会員制は治安警察法に触れる恐れがあるとして、越ヶ谷警察署長から中止を命ぜられ、ここに順正会の計画は一頓座を来した。

 しかし有志はこれをあきらめず、順正会の事業計画を内務省保険部に示してその意見を求めた。ところがこの計画は、内務省が立案していた国民健康保険の構想と類似していることが認められ、内務省の好意によって参考資料や規則書雛形の提供を得ることができた。時に昭和十年八月のことである。こうして順正会の計画は、内務省の好意によってその設立の確信を得ることができたが、なおも越ヶ谷町の警察署長や町役場はこれに同意を示そうとはしなかった。しかも越ヶ谷町の開業医は、医療費支弁の保証や、その責任の所在をめぐってにわかに反対の立場をとり、町役場においても、開業医すべての同意を得なければ年額三〇〇円の補助金支出はできないと態度を硬化した。

 こうした折、順正会の設立事情視察のため越ヶ谷町を訪れた内務省の事務官一行が町長や助役と会見、その説得にあたったため事態は好転した。かくて同年十二月、医師団の反対のまま、発起人九一名によって越ヶ谷教会で順正会の発会式が挙行され、役員が選出されて組織づくりが進められた。会員数は県会議員の選挙などで戸別訪問ができなかったが、翌十一年一月には一八四世帯、同年二月には二八一世帯の加入をみた。

順正会旗

 同年四月、内務省技師らの斡旋で医師団との妥協が成立、その名を「越ヶ谷順正会」と改め同年十一月事務所を開設した。当時の会員は四八八世帯である。これが全国でさきがけた国民健康保険類似組合の第一号であり、現在、市役所構内に建てられている「相扶共済」の碑銘のなかで、国民健康保険組合発祥の地と讃えているのはこのことを指したものである。越ヶ谷順正会組合員の組合利用状況を、昭和十二年度でみると、受診者は年間延五二二四人、受療日数年間延四万二〇六七日、この医療費総額一万二八一三円四四銭にのぼっている。なお順正会の負担率は、軽症が三割三分、重症が五割支出の立前をとっていた。