農村振興土木事業

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恐慌の深刻化に対処し、政府は昭和七年、農村救済対策の一環として救農土木事業の実施を指示した。埼玉県でもこれをうけ、同年九月県会の議決を経、救農土木事業の補助金支出を決定したが、このうち南埼玉郡の予算額は金八四万円の割当であった。この補助金の支給率は町村救農土木費のおよそ四分の三と定められている。事業の内容は、道路の新設工事や改良工事、用排水路の改修工事などである。施工の方法は、原則として部落単位に工事を請負わせ、この世話役には部落の区長等をあてて就労の均等がはかられたが、生活困窮者には特に就労の便宜がはかられるよう配慮された。

 この農村振興土木事業の県費補助金を、たとえば桜井村によってみると、昭和七年十一月の申請によって翌八年二月、金一八〇〇円が交付されている。工事箇所は、桜井村地内村道一、二号線、同三、四号線二ヵ所の道路改修工事で、施工方法は部落請負である。就労者の賃銭は一日あたり最高七五銭、最低三五銭であったが、桜井村では同年三月三十日に、延三〇四人に対し一六七円四〇銭を支給している。

 埼玉県では同年三月、この救農事業実施の状況を知るため、各市町村に調査の回答を求めた。これに対し桜井村では、

(1)地方民心ニ及ボシタル影響 地方民ハ救済事業ニテ道路ヲ改修シ便利ヲ図リ、且ツ非常時ノ際ニ於テ多少ノ労銀ヲ得ラルヽヲ以テ、民心ハ好感ヲ以テ迎ヘラレタリ

(2)地方経済ニ及ボシタル影響 地方経済上窮迫セル秋ニ当リ、若干ノ賃銀ヲ取得シタル為メ幾分ノ緩和ヲ見ルニ至ル

(3)地方行政運用上ニ波及シタル影響

 (イ)救農事業実施ノ為メ特ニ利便トナリタル事項 本事業ノ為メ大体便利トナリタルモ、反対者アリタルニヨリ一部路線ノ変更アリテ一般ノ便利トナスヲ得ズ

 (ロ)同上障害ヲ惹起シタル事項 本村ニテ設計シタル改修道路ハ村内中央ヲ貫通シタル通学道ニシテ、北部ハ岩槻野田県道ニ接続シ、四号国道ヲ経テ東武線武里駅ニ至ル、又同国道ヲ岐レテ北進スレバ粕壁町ヨリ日光ニ達ス、南部ハ四号国道ニ接続シ何レモ通学道ニシテ越ヶ谷町方面ヨリ東京市ニ至ル、殊ニ東武線大袋駅ニ至ル枢要道ニモカカハラズ、自大字上間久里一部ノ便利ヲ図リ村内一般ヲ顧ミズシテ反対ヲ唱フル為メ、村トシテハ公平ヲ旨トシ仲介者ヲ以テ屡々交渉ヲ重ヌルモ、言ヲ左右ニ託シテ荏苒日時ヲ経過シ、到底年度内ニ工事ノ完成セザルヲ憂慮シ、遂ニ反対者ノ希望セル路線ヲ以テ着工スルニ至ルモ、該路線ハ両住家ノ間ニテ、極メテ狭隘ナル位置ヲ撰ビタルモノナレバ、同大字民中困難ヲ叫ブモノ多ク、且ツ又一般者ハ理想道ニアラズト非難ノ声高シ

とあり、このほか次年度の実施計画などを参考資料として記している。このように救農土木事業は、村民から好感をもって迎えられたが、その実施にあたっては、計画路線や道路敷の買収をめぐり、村内どうしの紛争に発展することも珍しくなかった。

 たとえば大沢町では、昭和七年度の救済土木事業として、同町東裏地蔵橋より鷺後に通じる町道の改修施工を計画し、すでに町議会の議決を経て工事に着手した。ところが一部の大沢町民はこの計画路線に強く反対し、同町西側一丁目から武州大沢駅(現北越谷駅)に通じる新道路の開発を主張して運動を起した。大沢町長はこの要求を無視したが、これに怒った反対派は町民四〇〇余名の署名をあつめ、真向から挑戦にでた。ここに大沢町は賛成・反対に分かれて激論がたたかわされ、町を二分しての騒動となった。このため町長はじめ町議員七名が辞職するに至った。

 翌八年一月十一日、辞職七議員の補欠選挙が行なわれ、同十六日初の臨時町議会が開かれたが、ここで大沢町地蔵橋から大沢小学校裏まで、そして同校から四号国道に到る通学道路を新設するという一部路線の変更が示され、この妥協案が成立した。この間着工期日の遅延から、一五〇〇円の救済事業費の返還を県から求められるなど、幾多の混乱があったが、何とかこの事業に着手することができた。

現在の大沢鷺後道

 一方桜井村でも事業の遂行にあたっては、幾多の困難な問題に直面したが、昭和七年度の計画事業を完遂することができ、翌八年四月、事業成績の報告書を県に提出した。この報告書によると、事業費総額は二四〇〇円、うち工事費は二三〇二円、工事費の内訳は労力費が三四五円、材料費が八六八円、土地買収費と物件移転補償費が一〇五六円などとなっている。この間の就労人員は延六三八人、一人平均の受給総額は五円四〇銭、最高は一二円五〇銭、最低は六〇銭となっているが、一日当りの賃銭は男六〇銭、女三五銭となっていた。

 前述のごとく昭和七年度桜井村の救農土木費は二四〇〇円であったが、このうち県の補助金は一八〇〇円、残り六〇〇円は村費の負担額であった。しかし臨時土木費の財源を調達できなかった桜井村では、金六〇〇円の村費分を大蔵省預金部からの融資で賄った。この年利は三分二厘、四年間の据置で昭和十二年から同二十七年にわたる一五ヵ年期の償還条件である。昭和八年度においても、桜井村では、救農土木費二一〇〇円に対し、県補助金は一五七五円であったので、金五〇〇円の起債を県に申請した。起債の理由として、

  本村大字大泊字雉子田一〇四七番ヨリ同大字北一八番ノ地先第一号路線、同大字北一八番ヨリ大字平方山谷前一四一四番ノ地先第二号線ハ、本村中央部ヲ貫通スル重要ナル村道ナルモ、狭隘且ツ屈曲多ク交通上不便尠カラズ、仍テ之ガ改築ハ一般村民ノ多年願望セル所ナリ、然ルニ多額ノ経費ヲ要シ加フルニ財界不況ノ為容易ニ其ノ実現ヲ見ザルモ、幸ヒ今回政府ノ農村振興土木事業トシテ本県ヨリ二千百円ノ事業費ノ配当ヲ受ケ之ガ事業ヲ施行シ、交通ノ利便ト相俟チ産業ノ開発ト共ニ窮民救済ノ実ヲ挙ゲムトス、而テ事業費二千百円中千五百七拾五円ハ本県ヨリ補助ニ依ルト雖、残額五百七拾五円ハ直接本村ノ負担トナルベキヲ以テ、其財源ヲ考究スルニ、村税中特別税戸数割ハ一戸平均四円トナリ、其他国税・県税・附加税ニ於テモ制限極度ニ達シ、地租附加税本税一円ニ付六十六銭、営業収益税本税一円ニ付六十六銭、家屋税本税一円ニ付五十銭、県税営業収益税本税一円ニ付九十銭ノ賦課ヲナシ、之レ以上ノ負担ハ到底民力ノ堪ヘザル状態ナレバ、止厶ナク茲ニ起債ヲ為シ、以テ事業ヲ遂行セムトスルニアリ、

とあるごとく、村民の税負担は極限状態にあるため、この資金の目当は立たないことを挙げていた。こうした起債によって事業を進めたのは、桜井村に限らず、大方の町村はいずれも起債にたよった。たとえば大袋村でも昭和八年度の割当総工費二九五〇円の内、県補助金二二一二円五〇銭ノ残額七三七円五〇銭を「一時ニ支出スルコトハ、現下ノ村経済ニ於テハ誠ニ困難トスル所ナルヲ以テ、此ノ際低資(利)ノ融通ヲ受ケ、割賦償還ノ方法ヲ以テ歳出ヲ緩和致シ度候」とて、県に起債を申請していた。結局大袋村はこのとき金七〇〇円の起債が認められている。

 この農村振興土木事業は、町村が主体で実施したほか、国や県でも実施したが、国道四号線の改修をはじめ、おもな橋梁の掛替などもこのとき施工されたものが多かった。