末田用水耕地整理の竣功

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荻島村自力更生計画のうちもっとも重要な施策に耕地整理の実施が挙げられている。元来荻島村は、元荒川と綾瀬川の間一二〇〇町歩にわたる地域のなかにあったが、このうち新和村(現岩槻市)にかかる三〇〇町歩は窪地の耕地であり、しかも用廃水兼用のため水はけが悪く、沼沢地同様の状態に置かれ、野道も杜絶した不良地域であった。

 このため農村自力更生運動がおきるや、荻島村長と新和村長は有志と計り、農村の更生は耕地の改善からと、末田用水耕地整理組合を結成、先ず荻島村のうち試験的に六〇余町歩の耕地整理を実施した。ところがこの結果が良好であったので翌八年から三ヵ年年計画で一二〇〇町歩の耕地整理に着手、昭和十年予定通りの竣功をみた。この事業に費やされた工費は一九万七一〇〇円、このうち四万三五〇〇円が県の補助金であった。

末田用水耕地整理記念碑

 この耕地整理によって、田の地積は整理前の九三九町歩余から九四八町歩余に、農道が三九町歩余から七六町歩余に、用排水の溝渠が一〇町歩弱から四六町歩にそれぞれ増大、耕地の通路は四通八達、用水排水は分離されて二毛作が可能になる美田と化した。

 このほか、大袋村の東南部大林・大房などにかかる六〇町八反一畝二〇歩の耕地整理事業が、昭和三年から起工され、同九年七月に竣功をみている。この大袋村の耕地整理は、用排水路の拡張整備と、農道の整備に重点が置かれたが、それでも結果は六四町二反八畝余歩、つまり四町歩近い耕地の増大をみた。そして整理工費のほとんどは、この整理によって生じた増歩地の売却処分によって賄われたという例の少ない耕地整理事業となった。