農産構造の変化

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蒲生村昭和元年度(大正十五年)の農業生産額をみると、農産物では硬米・糯米合せて二一万二九九四円を筆頭に、蓮根の九一〇〇円、瓜類の五一一〇円、クワイの五〇〇〇円、茄子の三七二〇円、漬菜の二二〇〇円、葱・甘藷・大根・蕗の一五〇〇余円の順で、総額二六万一九一六円の生産をあげていた。このうち養蚕の八一七円、果実類の九三一円なども含まれている。

 次が二万八六一〇円の生産額を示す工産物であるが、このうち藁工品が一万八〇〇〇円、そのほかは煎餅などの菓子製造が五〇〇〇円、竹製品の一五五〇円、味噌醸造の一五〇〇円、製茶の二六〇円の順となっており、藁工品が主要な工産物であった。畜産物では鶏卵の二三六五円を最高に、鶏肉の一八一一円、豚の一八〇〇円、家鴨の七五〇円、仔牛の二五〇円という順序である。水産物ではドジョウ・鯉・ウナギ等の八八九円となっている。こうした農業の生産構造は、蒲生村に限らず、昭和初期までの越谷地域村々の平均的な経営状態であったろう。

 これが昭和四年の農業恐慌を境に、その生産構造は大きな転換を迫られることになった。試みにこの恐慌に直面した蒲生村昭和四年度の農業生産額をみると、農産物価格の暴落で、米は昭和元年度のおよそ半額に近い一一万四三五九円、蔬菜では、たとえば昭和三年度四万四〇〇〇貫、金六〇〇〇円であった漬菜が、翌四年度には同数量で実に二二〇〇円に下落している。ことに農家の副業として従来安定した産額を示していた藁工品は、昭和元年度の一万八〇〇〇円から四年度には、一万〇六五〇円に下落した。

 この藁工品に関しては、昭和五年の『蒲生村時報』によると、「一般農家は農産物ならびに藁工品を製造販売して生計をたてていたが、昭和四年以来この藁細工類は、殆んど値のないまでに暴落し売行が止まった」とのべ、さらに「草履や草鞋で名高かった蒲生村は、之に依る収入もまた甚大であったが、今ではゴム足袋万能の時代となり、草鞋の如きはやがて小学校の標本にでもしなければならない様な時が来るであらう」といっている。また蔬菜類に関しても「不景気風の凄まじさと、生産過剰の故もありましょうが、品物によってはリヤカー一台の仕切が砂糖一斤の代金にも足らなかったとか、或は自動車賃にも足りなかったなどの惨話を耳にいたして居りますが、誠に痛歎に堪えない次第であります」、「此のままの状態が二、三年も続く様なことになると、遂には由々敷き問題を惹起せぬとも限」らないとのべ、こうした農村の疲弊を挽回するのには、食料や肥料の自給に適し、かつ収益を向上させる水田二毛作の栽培や、蔬菜栽培への転換をはかる必要があることを力説する人もいた。すなわち、

   本村の水田は大部分が乾田でありますから、整地や管理に少し労力を余分に掛ければ、二毛作の栽培は充分可能です。もとから二毛作は収益の増大が目的ではありません。むしろ耕土を深めるなど土地の改良にあります。それで二毛作には大麦小麦・菜種・レンゲ草が適当し、一歩進めて馬鈴薯や、甘藷を植えれば収益をあげることもできます。次に畑蔬菜の栽培は、東京市近郊の都市化でその需要は急速にのびています。ことに本村は東京市に近接している関係から蔬菜肥料(下肥)の購入も容易であり蔬菜栽培はもつとも適しています。本年度は野菜物の下落が甚しく、収支が償われないと尻込している向もあるが、凡て世の中のことはぐる/\循環していくものです。今年安いからといつて来年もまた安いわけではなく、今年高いからといつて必ずしも来年も高いわけではありません。したがつて毎年作付面積をあまり増減せず、辛抱づよく栽培を続けることが肝要です。本郡の潮止村が全国的な模範村として富裕な村になつたのは、野菜栽培を根気よく続けた結果です。さらに近年自動車の発達で、遠隔地から野菜物が大量に東京市へ運ばれていますが、一寸相場がよいと大量の生産物が一度に持込まれ、忽ち価格の暴落を招いています。それで当地域では傷みの早い軟化野菜類の栽培が有利になると思います。

と、大要以上のごとく述べていた。

 ともかく蒲生村昭和四年度の農業所得は、総額一七万五九五〇円であり、昭和元年度の二六万一九一六円にくらべると、約三三%の落込みであった。これに対しての納税金は四万〇八三五円、一戸当り平均七三円九〇銭、このうち国税は一万〇〇七五円、県税一万六〇七九円、村税一万二五八五円、水利組合費二〇九六円である。この納税総額は景気のよかった昭和元年度の納税額四万二二三八円と大差はない。いかに不況時における農家への経済圧迫が強かったかを知ることができる。

 こうした苦境下に立たされた農家は、水田の裏作や水稲品種の改良、あるいは西洋蔬菜の栽培などに努めたが、なによりも畜産に活路を見出す傾向を示した。第42表にみられる数字がこれを端的に物語っている。すなわち昭和五年度の畜産額はわずか四四〇〇円に過ぎなかったが、翌六年度には一きょに五万円台の実績をあげている。この内訳は、屠肉四万九〇二五円、鶏肉一五三七円、鶏卵一四〇八円、兎一九七円となっている。屠肉とはおそらく豚であろう。当時蒲生村では「難局打開策として、豚コレラに懲りず、有畜農業に邁進せよ」と豚の飼育を盛んに奨励していた。この畜産物の生産は、その後さらに増大し、昭和八年度には一三万五〇一八円、このうち屠肉は一三万一四〇三円と、同年の農産物生産額一五万七〇〇〇余円に大きく迫った(第42表参照)。

第42表 蒲生村農業生産額の推移
年次 農産物 工産物 畜産物 水産物
昭和元 261,916 28,610 6,976 889
2 240,395 26,350 6,077 2,238
3 206,348 23,200 5,707 2,237
4 149,356 15,647 4,448 1,500
5 129,304 19,078 4,400 543
6 121,614 19,586 52,241 390
7 141,493 20,913 78,859 368
8 157,113 22,048 135,018 391
9 143,049 45,337 97,514 295
10 191,314 48,450 67,547 294

 このほかの傾向としては、水田裏作の菜種やレンゲソウの栽培が増大しているし、トマトなどの西洋野菜が昭和九年頃から普及をみている。なお昭和十一年度蒲生村水田裏作の作付面積をみると、第43表のごとくである。また工産物では藁工品は次第に衰退し、かわって煎餅などの菓子製造が工産物の最高を示すようになる。たとえば昭和九年度をみると、藁製品八八一〇円に対し、菓子が二万六七七五円の生産をあげていた。

第43表 昭和11年度蒲生村水田裏作作付
大麦小麦 20町5反歩
菜種油菜 13町3反
れんげそう 7町2反
馬鈴薯 4町6反
くわい 1町2反
豌豆等 8反
合計 47町6反歩