明治三十三年の小学校令の改正で、尋常小学校の授業料が廃止されて以来、就学率は男女とも飛躍的に上昇し、大正五年には埼玉県全体でも九九・一六%に達した。越谷地域でも明治三十年代から九〇%を上まわり大正期には九九%台の就学率をみせていたが、出席率は第45表でみられるごとく、昭和初期にあっては九〇%を割ることもあった。
年度 | 就学率 | 出席率 |
---|---|---|
% | % | |
大正15年 | 98.9 | 89.5 |
昭和2 | 99.1 | 89.1 |
〃 3 | 98.8 | 89.8 |
〃 4 | 98.8 | 89.7 |
〃 5 | 98.4 | 95.8 |
〃 6 | 99.2 | 96.7 |
〃 7 | 99.1 | 96.1 |
〃 8 | 99.1 | 93.9 |
〃 9 | 99.2 | 94.6 |
〃 11 | 99.1 | ― |
また教育費は明治三十三年、市町村立小学校教育費国庫補助法によって国庫から補助金が与えられるようになったが、その額は僅少なものであったので、常に町村財政を圧迫するものであったのは変りなかった。しかも明治四十年義務教育年限が六年に延長されたため町村負担が増大したこともあり、町村側の強い要求で大正七年、市町村義務教育費国庫負担法が成立、教員俸給の一部が国庫の負担に移された。しかしその額は教員給与の二〇%程度であり、教育費の村費に占める割合は桜井村でみられるごとく、やはり五〇%以上が一般的であった(第47表参照)。このため昭和初期の恐慌期にあっては、町村財政軽減のため、教員俸給や需用費の切下げを行うこともあった。たとえば蒲生村昭和六年度には経常教育費のうち俸給など金五九七円が削減されていた。
年度 | 国庫 | 村費 |
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円 | 円 | |
大正15年 | 1,743 | 7,921 |
昭和2 | 3,550 | 7,222 |
〃 3 | 3,590 | 6,352 |
〃 4 | 3,590 | 6,294 |
〃 5 | 3,800 | 4,322 |
〃 6 | 3,500 | 3,233 |
〃 7 | 3,450 | 3,598 |
〃 8 | 3,700 | 4,282 |
〃 9 | 3,700 | 4,032 |
〃 11 | 3,600 | 5,779 |
年度 | 村費 | 教育費 | % | 摘要 |
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円 | ||||
昭和11年 | 11,543 | 6,444 | 56 | |
〃 12 | 12,292 | 6,530 | 53 | |
〃 13 | 15,272 | 8,528 | 56 | |
〃 14 | 15,587 | 7,773 | 50 | |
〃 17 | 18,703 | 7,951 | 43 | 臨時手当 |
〃 18 | 20,773 | 3,909 | 19 | |
〃 19 | 31,171 | 9,399 | 30 | 校舎増築 |
〃 20 | 33,366 | 5,687 | 17 |
やがて昭和十五年、地方財政制度の全面的な改正が行われ、これにともない義務教育費国庫負担法も大幅に改正された。この改正では、教員俸給の半額が国庫負担に改められたほか、あとの半額は道府県の負担と定められた。なおこの負担方法は現在にも適用されて生きている。ついで同十八年には教員の賞与や死亡賜金なども道府県に移されたので、教育費の町村費に占める割合は、第47表にみられるごとく軽減された。
すなわち桜井村では義務教育費国庫負担法の改正以後は、経常費のうち諸給では、校医手当・使丁給・出張手当など、需用費では備品・消耗品費・宿直賄手当・電燈料そのほか営繕費などが主な村費支出で、校舎の増改築など臨時支出を除いては、村費に占める割合はおよそ二〇%以下になっていた。