教科書

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大正七年から改訂国定教科書が採用され各府県に配付されていった。このうち国語教科書は、「ハナ ハト マメ マス」ではじまる新しい尋常小学国語読本にかえられ、表紙も黒表紙から明るい色彩の表紙に改められた。当時は新旧いずれを使用してもよいとされたが、埼玉県では、文部省が示した国定教科書のうち、一二冊の尋常小学国語読本と、小学国語書方一一冊を採用してこれを使用教科書に指定した。ついで昭和八年にも国定教科書の改訂が行われたが、このうち小学国語読本は、「サイタサイタ、サクラガサイタ」の文章ではじまる色刷の教科書に改められ、他の教科書もおよそ色刷の本にかえられた。

 この間政府は、国家皇室崇敬の念を浸透させるため、小学校内に御真影奉安殿の建立を奨励した。これをうけて出羽村では、昭和三年十一月、他村にさきがけ、出羽小学校庭に御真影奉安殿を設置した。奉安殿は町村にとってもっとも神聖な場所とされ、応召兵の壮行式や諸祈願祭はこの奉安殿前で挙行されることが多かった。

 やがて昭和十二年、日華事変がはじまるや、戦時体制の強化をねらった国民精神総動員運動が国策として展開された。この運動の一環として同年十二月教育界でも文部省内に教育審議会が設けられた。この審議会は、学校教育をより一層国策にそった方向に導くための機関で、この頃から戦時教育の傾斜がはげしくなった。

 また「手本は二宮金次郎」と小学唱歌にうたわれた、少年二宮金次郎の薪を背負い本を読む姿の像が、一般的に小学校庭に建立されるようになった。勤勉で従順な金次郎の姿が国策にそった小学教育に改めて利用されたわけである。ちなみに増林小学校では昭和十三年五月、荻島小学校では同年九月、村農業会や信用組合の拠金によって建立されている。

増林小学校二宮金次郎像

 こうしたなかで、昭和十六年、小学校が国民学校と改められ、同時にに全国一率の国定教科書が制定された。これら教科書のうち、国語読本は、「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」の文章ではじまるので、アサヒ読本と称されたが、その内容は、「ヒノマルノハタ バンザイ バンザイ」というように、国家主義的、軍国主義的色彩のより濃いものであった。