大正十三年十月、文部省は「実業補習学校公民科教授要綱」を制定し、「忠良ナル臣民」の育成を目的とした青年教育の強化をはかろうとした。この要綱の発布にもとづき、越谷地域各町村の実業補習学校も、翌十四年から一部学則を改正し、次々と「公民学校」に改められていった。
この公民学校をたとえば増林村の学則によってみてみると次のごとくである。まず修学課程は前期と後期の二期からなる本科と研究科に分れ、本科のうち前期の就学資格は尋常小学校卒業者、または満一四歳以上の者、後期は高等小学校卒業者またはこれに準ずる者、研究科は本科のうち後期の課程を修了した者あるいはこれに準ずる者で、満二〇歳が限度となっていた。科目は男子が修身・国語・数学・理科・農業・体操の六科目、女子はこの六科目のほか家事・裁縫・音楽が加えられている。教授日数は、四月から十一月までは、昼一時から同四時までの時間で八月の七日間を除き一ヵ月二日間、十二月から三月までは夜七時から九時までの時間で二〇日間から二二日間の授業日数である。
授業料の徴収はなかったが、義務制ではなかったので、学齢者全員がこれに参加するとは限らなかった。それでも昭和七年度荻島村公民学校の就学状況をみると、男子学齢者一二四名に対し就学者は九九名、七九・八四%の高率の成績であった。しかし女子の就学数が記されてないので、あるいは女子の就学はなかったのかも知れない。さらにこの男子の就学者数も、おそらく大正十五年から公民学校に併設された青年訓練所の生徒数を合せたものであったかも知れない。両者は各町村の尋常高等小学校の併設機関であったからである。