昭和十年四月に制定された青年学校令によって、それまでの実業補習学校(公民学校)と青年訓練所が統合され、新たに青年学校が設置された。これは青年訓練所の設置場所や指導員が実業補習学校と重複し、かつ生徒も二重の学籍をもって同時に学習や実習を受けるという不合理を解消するためであった。両者の統合にあたっては、軍部は軍事教練の必要性を主張し、実業補習学校を青年訓練所に吸収することを要請したが、容れられず、名目上は青年訓練所を廃止して青年学校に吸収することに定められた。
新たに設けられたこの青年学校の学則を、たとえば増林村でみてみると、生徒は小学校を卒業して職業に従事する男女青年で、普通科が二年、本科が男子五年、女子三年、研究科が男子一年女子二年となっている。学科は修身・国語・数学・地理・国史・理科・音楽・農業・体操となっており、女子はこれに家事や裁縫が加えられ、男女とも二二〇時間の学習単位であった。また本科・研究科の男子には、九〇時間の実習時間をもつ教練科が設けられ、単位時間の半ばが軍事訓練にあてられていた。
その後青年学校は昭和十四年四月、男子生徒を対象とした義務制が布かれ、自主的な学習方針は、いよいよ戦時国家への協力体制の中に組入れられていった。