県立越ヶ谷高等女学校の開設

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大正十五年三月、越ヶ谷町は町立越ヶ谷実践女学校の設置を埼玉県に申請、これが許可され同年四月、越ヶ谷尋常高等小学校内にこれを併設して授業を開始した。女学校設置の目的は、「商業ニ関スル知識ヲ授ケ、併セテ裁縫家事ニ関スル知識及ビ普通学ノ補修等ヲナシ、以テ町将来ノ発展ニ資スル」とするもので、修業年限は前期二年、後期二年の四学年制であった。授業料は越ヶ谷町民の子女が月額五〇銭、他町村の子女が金一円の二段階制をとり、学校職員は校医を含め七名専任された。

 生徒定数は、当初一二〇名と定められていたが、開校時の生徒数は一三名に過ぎなかった。ついで昭和三年四月、同校の名称を越ヶ谷町立実科高等女学校と改め、修業年限を二年にするとともに、授業料も一率月額二円に定めた。越ヶ谷町ではこの年実科高等女学校の県立移管を志向し、県会議員などを通じてその運動を進めていた。かくて昭和五年三月、学校敷地五〇〇〇坪とともに建築した独立校舎を県に寄付する条件で所定の手続きを終え、ここに越ヶ谷町立実科高等女学校は県に移管された。同時に四年制課程の女学校として、同年四月、その名称も県立越ヶ谷高等女学校と改められて開校された。しかし新校舎が落成するまでは、従来通り越ヶ谷尋常高等小学校に併設されたままで授業が続けられた。

開校当初の越ヶ谷高等女学校

 やがて昭和六年五月、越ヶ谷町久伊豆神社わきの敷地に建設中の独立校舎は、棟上も終えて落成を待つばかりとなっていたが、不審火(一説には煙草の火の不始末)から一朝にして灰塵に帰した。財政難に苦しむ越ヶ谷町役場をはじめ、関係者は途方にくれたが、工事請負者の責任で再建が進められ、翌七年三月にようやく竣功をみた。同年四月、新校舎への待望の移転も終りここに独立校舎でのはじめての授業が開始されたのである。

 その後学校経営は順調な経過を辿ったが、ことに体育部では活躍をみせ、昭和十三年九月の埼玉県卓球選手権大会では、優勝と二位、三位の受賞者を出していた。

 また同校の職員数や生徒数を昭和十五年を例にとってみると、職員では校長以下教諭一三名、嘱託四名、書記一名、校医四名の計二三名、生徒数では一年生一〇三名、二年生一〇〇名、三年生一〇〇名、四年生九一名の計三九二名であり、この年の卒業生は八九名を数えた。生徒の授業料は昭和八年四月から月額金四円となっている。

 なお同校の教員の一人に、児玉郡出身の萩原美代三郎という音楽教師がいた。美代三郎は埼玉県師範学校卒業後、東京音楽学校師範科を修了したが、つとに唱歌教育(音楽教育)に熱心であり、大正十五年九月請われて越ヶ谷実践女学校の嘱託(講師)となった。その後同校は越ヶ谷実科高等女学校、県立越ヶ谷高等女学校となったが引続いて在職、このほか越ヶ谷小学校高等科の兼任教員として昭和七年まで音楽を担当した。しかも時には近隣の学校へも出張指導することがあり、市域の音楽教育の草分け期に貢献があったといわれる。