斎藤豊作

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斎藤豊作は、明治十三年六月大相模地区西方の素封家斎藤孫兵衛の二男として生れた。明治二十三年三月、大相模尋常小学校を優等で卒業後、父孫兵衛の姉ヨネ子の養子となって東京市日本橋に転居、開成中学校に進学した。同三十二年九月、開成中学を卒業した豊作は東京美術学校に入学、同校には当時山下新太郎・青木繁ら著名な画家が上級生として学んでいた。同三十八年七月、東京美術学校西洋画科選科を級友一〇人とともに卒業、翌三十九年フランスへ留学、有島生馬・湯沢一郎らとともにグラン・シヨミエールで学んだ。

斎藤豊作(向って左側)

 同四十五年、新印象派の画風を身につけて帰国、東京市小石川に住居し、精力的に絵画創作に励み、数々の作品を展覧会に出品した。ことに大正二年秋の第七回文展に出品した「夕映の流」は、豊作の代表作として現在東京国立近代美術館に収蔵されている。翌三年、文展洋画部に第二科を設ける運動が展開されたが、文展側の反対にあい、同年十月第一回二科展を独自に竹の台陳列館で開いた。二科会の旗上げである。このとき豊作は石井柏亭・梅原龍三郎・山下新太郎・有島生馬・坂本繁二郎らとともに鑑査員に互選された。

 同年十一月、豊作は有島生馬の媒妁で、当時来朝していたフランスの女流画家カミール・サラソンと結婚、なおも二科展に労作を出品していたが、大正八年十一月妻子とともにフランスに渡り、以来フランスから再び日本の土を踏まなかった。昭和二十三年十月、フランスのバンベルで病いのため没した。年七一。

 現在豊作の遺作は日本では二〇数点しか発見されていないが、いずれも価値の高いものと評価されている。フランスに渡ってからは日本画壇から忘れ去られた存在となったが、二科会創立者の一人として、美術史上大きな足跡を残した画人であったことに違いはない。(松島光秋氏提供)