当時の越谷の情景を偲ぶ記録はあまり発見されてないが、昭和十一年の『蒲生時報』に載った小学生の作文を紹介しておこう。
私はゆうべ家の人とおゆに入りに越ヶ谷へいきました。そのかへりにでんしやのまどを見ますと、ほたるが二ひきぴかりぴかりととんでいました。私はとりたいなと思ひましたが、電車がとまらないのでとることができませんでした。いよ/\ていしや場について家へかへりました。(中略)私はとうとう外へでてまつていましたが、みんなむかうの方ばかりとんでいました。その中に一ぴき私の近くへとんできましたので、こんどこそはきつとおさへてしまほうと思つて一もくさんになつてかけだしました。するとげたのはなをが急に切れてしまいました。
と、当時多数のほたるが越谷の夏の田園にいろどりをそえていたことを伝えている。また、
十四日の日は西(組)の村祭りです。朝からたいこや笛がけいきよく聞える。朝お餅をついたのでお父さんと私と芝の家へ行くことになつた。早く帰つて芝居を見に行くといつて早く帰つた。家につくとおばあさんはもう行つてしまつた。お母さんが「おばあさんに提灯をもつて行きな、暗くなつて帰るとけがでもすると大へんだからもつて行きな」とおつしやいました。(中略)いくら見つけても見物人が多くてやつとのことでおばあさんが見つかつた。新田の人の所へ提灯をたのんでおいてあると申しました。少し芝居を見たが夕方になつたので帰つた。朝ちやんやおたいちやんが来たのでみんなで又芝居見物に出かけた。
と、人出に賑わう盛んな村祭りの様子を記している。村祭りは当時農村娯楽の中心を占めていたことがここからも窺われる。このほか、
春の夜 湯殿に小さく らんぷかな
春浅し まばらに見ゆる 人と牛
昼みれば くびすぢ赤き 螢かな
夏の午後 木蔭にやすむ 人と牛
などの児童俳句がみられる。また昭和十二年の早春、俳人高浜虚子が大房浄光寺の古梅園を訪れ、
寒けれど あの一むれも 梅見客
の句を詠んでいるが、この短冊が今でも浄光寺に残されている。