越谷の俳句と文芸誌

639~641 / 1164ページ

越谷地域の俳壇は、大正期から昭和期にかけ、蒲生村の千草会を中心に、出羽村の麗吟社、荻島村の荻吸社、大相模村の鳩声会、越ヶ谷町の越ヶ谷句会などが、それぞれ活発な俳句活動を展開していた。ことに蒲生では、昭和五年から発刊した『蒲生村時報』に、毎回俳句欄を設けて、数多くの投稿句を載せていたが、後には児童俳句を掲載するほどの力の入れようであった。たとえば「稲穂田に 追へど又来る 群雀」「広い田に 早苗を手にし 植ゑてゆく」などの児童作品がみられる。

 当時越谷は、出羽や蒲生を中心に蓮の栽培が盛んであったが、川辺や沼地に自生する蓮も珍しくなかった。ことに越ヶ谷町の町裏(御殿町)の元荒川に、いつとなしに蓮が繁茂し季節には美しい花を競っていた。昭和十年おそらくこの自生の蓮の調査とみえて、蓮博士で著名な大賀一郎が蒲生を訪れている。このとき蓮の自生地へ案内した蒲生村千草会の同人が、「ひとり聞く 時や蓮の ひらく音」の句を詠んでいた。

 その後昭和十八年五月、埼玉県翼賛文化連盟の要請にもとづき、蒲生・越ヶ谷・大相模・出羽・増林・松伏・草加・八幡の各俳句会は統合し、「東武俳句報国会」と名付けられて越ヶ谷久伊豆神社社務所で結成式が行われた。会長は蒲生村瓦曾根の中村比古で、事務所は同氏宅、幹事長は同じく蒲生村瓦曾根の秋山清洲であった。この東武俳句報国会の作品では、時局を反映し、「土に生き 御旗の下に 籾をまく」「護国神 鎮まる社 若葉せり」「召されたる父に見せたし 鯉幟」「青嵐(あおあらし) 飛機敢然と 羽搏けり」、など戦時色の濃いものが多かった(一部秋山長作氏提供)。

東武俳句報国会(昭和18年5月)

 また大正十三年、越ヶ谷町の中村善太郎を編集兼発行人に、同町明詩社を発行所とした俳句や短歌などの月刊文芸誌『明詩』が発刊されている。俳句の選者は松村蒼石、短歌は中村如水で、その作品は全国から寄せられている。このほか論壇では馬場孤蝶など著名人の寄稿もみられる。このうち俳句では「蝙蝠や 田舎芝居の 莚土間」「初夏やちらほらともる 夜店の灯」など、大正期の情景を偲ばせる作品がみられる。

 この文芸誌『明詩』は、大正十五年(昭和元年)に休刊となったが、昭和五年六月、誌名を『曠野』と改められて再刊された。編集発行人は同じく中村善太郎、発行所は明詩社であったが、その内容はほとんど越谷を中心とした周辺同好者の寄稿による短歌誌となっていた。ちなみに同年十月号の作品には

 雨はれて濁水の流るゝ元荒川の 蓮の花は黒くうつれる

 あし原のしげみの中の砂利道を 走せに走せくる女を見にけり(渡場にて)

 さやさやと風出て涼しかなたなる 村の祭の大鼓ひびかう

 銀行の前を通れば響きくる 一銭銅貨のかぞう銭の音

などの当時の田園情景とともに

 村人の米価騰れる噂せど 売るべき米のはや家になし(七年三月号)

 雨の日をひねもす俵編み居れば 節くれ痛く身にぞ泌みきぬ(同号)

 貧しけれ 正しく働く人達の 食べらるる世と信じゐるなり(七年六月号)

 世の景気かかはりもなくひたむきに 働く百姓の生活さぶしも(八年十一月号)

などの深刻な生活不安を訴えた作品も散見される。やがて日本は、満州事変に突入していったが、同時に軍国主義が国内に浸透しはじめ、文芸に対する風当りも荒くなっていった。こうしたなかで、「パンのため世人の娯楽にこびると云ふ われらのこれが本意にあらず」などの作品が現われるようになった。また「満州の事変起れば子供等は 草むらはせつ兵隊あそび」(七年十一月号)など、戦争によって変化を示した子供の遊びや、「風寒き七日の夕の野の果を追わるる如く万歳の行く」(八年二月号)という応召者の歓送情景などが歌われ、はては「敵機みゆ暗きさ中に警鐘の乱打となりて伝令とびぬ」(八年十一月号)と歌われるごとく、緊張した戦事体制を反映した作品がみられるようになっていった。この短歌誌『曠野』の廃刊期日はつまびらかでないが、おそらく昭和九年から同十年の間であったようである。