我が国のラジオ放送は、大正十四年三月、東京放送局芝浦仮放送所から電波が発せられたのが最初である。これに対し越ヶ谷町有志は、いち早く米国ウエスターン社製四球式の受信機を金四四〇円で、それに金四六円の蓄電池と軽電池各二組を日本電機株式会社から購入、越ヶ谷町停車場通りの越ヶ谷幼稚園内に架設した。
この目的は「文化の恵沢も、経費の点や或は取付不案内、操縦の懸念等よりして、個人ではなかなか設備することが困難であります。そこで次の如き方法で、最も完備せる器械によりまして、心地よき会場でラヂオを聞くと云ふ仕組にいたしました」という趣旨により、ラジオ放送の聴取を会員制によって一般に公開することにあった。この会は「ラヂオ同好会」と名づけられたが、会員の種類には、毎月金二円を納めて毎日の米市況や株式市況を聴取する第一種会員、毎月金一円五〇銭を納め、毎夜講演や音楽その他の放送を聴取する第二種会員、一夜金一〇銭の会費を納め、その夜の放送を聴取する第三種会員とに分けられていた。そしてラジオ聴取の会場では「静蕭ヲ旨トスルコト、喫煙セザルコト、七歳未満ノ児童ニ対シテハ入場ヲ謝絶スルコトアリ、泥酔者病人等ニハ入場ヲ謝絶ス、入場券ハ一人一枚ハ必ラズ持参シ、会場主任ニ交付スルコト」という規則が定められていた。
当時のラジオ放送番組は、午前九時の天気予報にはじまり、次のごとき番組であった。
午前 午后
九・〇〇 天気予報 一・三〇 新聞報 七・一五 家庭報
九・二〇 米市況 一・四五 米市況 七・二〇 講演
九・三〇 株式市況 一・五〇 株式市況 八・〇〇 音楽
一〇・〇五 米市況 二・三〇 米市況 八・五五 天気予報
一〇・三〇 株式市況 二・三五 株式市況
一一・三〇 新聞報 三・二〇 米市況
一一・四五 株式市況 三・二五 株式市況
一一・五五 米市況 七・〇〇 新聞報
当初ラジオ同好会では入場者を三七〇名、この収入金を九五円と見込んだ。これに対し支出経費は、役員手当、会場整理小使給、電燈料その他で計六七円、差引き二八円の収益を予想した。そして将来収益金を積立て町の有益な事業に寄付する計画を立てていたが、予想通りの収益があったかは不明である。ともかくラジオの聴取では、越ヶ谷町は全国でも早い方であったろう。なお大正十五年二月、荻島小学校内にも鉱石ラジオセットが架設されたが、これはおそらく児童向のものでなく一般の人びとの関心に応えて設けられたものであろう。