越谷市域に行われてきた芸能や娯楽を、年代順に整然と説くことは、今の研究段階では困難である。昭和四十四年に行われた越谷市民俗調査の結果を収録した『越谷市民俗資料』では、祭礼・年中行事に関するかぎり、大正の末頃から昭和十三年頃までの状況が中心となって記載されているように思える。中には明治初年以来一貫して持続的に行われたものもあるであろうが、それを証明するのは困難である。そこでおおよそ明治中期から大正・昭和にかけて行われていたと推定される年中行事のおもなものを、右の『越谷市民俗資料』から抜き出しながら概略のところを述べてみよう。
ハツマイリ 元日の朝、うち中(じゅう)で新しい下駄をはき、競争のようにして神社に詣る。その順序は、下間久里の例でいうと、香取神社(鎮守)・不動尊・大六天社・雷電社であり、増森の場合は、三〇分から一時間位かけて、村内一六ヵ所にていねいに詣った、という。お供えとか紙に米を包んだおひねりとかを持って行った。
オウバン 正月の二日、三日、七日とか全親類があらかじめ日をきめておき集って年始の礼をした。半紙二帖に水引をかけて持参した(下間久里)。初めての婿は必ずよばれ、親類一同に披露された。嫁さんをよぶと、お返しにお姑さんがよばれたりして、婚家先と実家とたがいに理解を深める機会になった(大泊)。これは中世武家記録に見える「〓飯」の農村版である。
歳神送り 初の卯の日の卯刻には、年男は歳神さまを送ると称して、洗米をもって神社に参る。神様のあがる日とよぶ。
謡いぞめ 正月に行われる部落の行事。神社に各家のダンナシュ(世帯主)が集り、謡いをする。その後若衆が入れ替りウタイゾメをする。
オビシャ 正月オビシャと初午オビシャとある。前者の例として下間久里では、毎年正月十一日にオビシャを行う。部落内の家順に七軒ずつ当番を勤める。その内一軒はザモト、六軒はソエバンである。当番は各戸から米一升(のちには五合)を集めて甘酒を大桶に作り、また赤飯のにぎり、煮しめも作る。十一日神社で祭の式をした後、的を正面の鳥居に吊し、拝殿から氏子総代三人と自治会長とが射る。竹で六尺位の弓を、しの竹で矢をあらかじめ作っておく。夕方にはホーライ(蓬莱であろう)ということがあった。木の盤に円形の台を置き、松竹梅を立て、大根で作った鶴亀を吊る。これを若者がかついでオビシャ祝いの席(ザモトの家)に持ちこむ。若者たちに一献出し、やがて謡い(高砂など)が始まると若者は寄ってたかってホーライをぶちこわしてしまうのであった。
初午オビシャの例をいうと、花田では、家順に四人の年番が共有田を耕作してとれた米を売って、甘酒・弓矢・的などを準備する。弓は梅の木で作る。二月初午の日に、鎮守稲荷神社が合祀されている久伊豆神社へ行き、御幣を受けてきて、寺の前庭で、七歳の男児が弓を射る。この日老人は久伊豆神社から始めて村中のあらゆる祠に団子二、三個ずつを供えて廻ったという。
大般若 蒲生では四月十日、頭に手拭を巻き梵字をつけた人たちが、六百巻の経巻を六台の竿にさし、長持のようにしてかついで部落中を戸毎に廻った。八月一日にはその大般若経の転読が行なわれ、第一巻と第六百巻は導師が読み、あとは十人くらいの僧が繰った。朝から境内に出店が立ち、新しく嫁入ってきた者はかならず参詣に来た。
春祈祷・夏祈祷 小曾川では前者は四月二十四日、後者は七月十一日で、その日は藁縄で大きな輪を作り、若者がそれにつかまって、「ナイダ、ナイダ」と連呼しながらねり歩く。百万遍の変形である。
百万遍 七左衛門では五月頃百万遍という行事があった。数珠に形どった太縄を編み、若衆が褌一つでかつぎ、「ナイダ、ナイダ」と唱えながら各家々の土間を巡って歩いた。その際汚れものを体いっぱいつけられ、終ると若衆は用水にとびこんで体を清めた。