越ヶ谷の総鎮守久伊豆神社の祭礼は、『武蔵国郡村誌』によると、三月九日・五月二十一日・九月二十九日とある。その中九月二十九日が最も盛大であった。現在も九月二十八日~二十九日となっている。二十八日朝神輿渡御があり、太鼓・榊を先頭に、宮本町の白装束の若者一六人にかつがれて越ヶ谷の町をねり、年番の所に落ち着く。年番は本町一~三丁目、中町、新石一~三丁目、弥生町 以上八つの年々交代であり、神輿の世話人は四丁野の御縄先組・押切紙・野尻組の各から二人ずつ出て四年交代である。二十九日に神輿は久伊豆神社に還御するが、この時山車が右に掲げた各町内から一台ずつ出る。以上こうした祭礼の様式は明治末期あたりに固定したのであろう。
増森の祭礼は一月二十五日と七月二十五日とあって、一月には各戸から米を集めて甘酒を作る。当番は七軒で、うち一軒をオヤドといい、六軒をアイト(相頭)とよぶ。一月十日を「米つき正月」といって、当番が玄米をついて精白する。十八日「甘酒かっこみ」といい、オヤドにおいて大釜で炊き、はんぎれを用い麹とまぜ四斗樽に詰め(四、五本になる)、オヤドの台所に笹としめを張りねかせておき、二十四日「イモリ」といって当番が甘酒の出来ぐあいを試飲し、集った人にものませ、幟(七間もある)を立てる。二十五日、世帯主が参詣し、つづいておばあさん衆、嫁さん衆、若い衆の順に参詣する。新婚の嫁が姑につれられて参詣しに来ると、当番が大根のおでんを振舞う。二十六日ノボリカエシとて幟を片付ける。
七月のときも二十四日に幟を立て、二十五日に旦那衆の酒盛があり一月の時と同じ順序で参拝するが、この日トワタシ(頭渡し)とて当番の引継ぎの式がある。その宴には御椀が出、鯛をつける。昔は今年の当番から来年の当番へ、親椀・吸物椀(一人前四個)とはんぎれとを渡したという。
右の鎮守祭りのいとなみ方は各部落それぞれ個性があるが、基本には共通するものがあろう。そのほかにも挙ぐべき祭礼行事は多いが、まず天王祭を述べる。
天王祭は越ヶ谷でも大沢でも盛大である。届出書類の中から一例を拾うと、明治三十三年七月十三日、越ヶ谷本町二丁目横丁八坂神社例祭につき町中央への神殿仮設・神輿据付・大提灯軒提灯点灯が行われている。大道では毎年六月二十八日大祓の式の時、天王祭に神楽を雇うか否かをきめるという。七月十四日ヨミヤで獅子を道案内として神輿を八坂神社(天王社)から出し、その神主の家で神輿をもみ、旧名主宅にも寄る。十五日朝八坂神社に神輿を戻し、夕方また前日と同じことをくり返す。かなり乱暴な祭りで、神輿はほとんど肩にのせぬくらいにもみ、既に二回もこわした。年によりお囃(はやし)六人が乗る山車を出す。十六日神輿を八坂神社に戻す。明治期にこの祭を休んだらその年チフスが流行したので、それ以来欠かさずやっているという。
平方では、南組と横手とが合同して、天王さまを昔から祭っており、七月十四日(もと六月十四日)には、かつては神輿が各戸を廻って座敷に上ってもんだ。ヤドは特定の家に固定している。
西方では七月十五日を天王さまの日として(天王社はないが)一日仕事を休み、家中の神に小麦饅頭と葭の箸とを供える。大間野では六月十五日を天王さんの日といい、この日に若衆の仲間入りをする。定使野でも七月十五日を「天王さま」とよび、小麦饅頭を作る日としている。
天王祭りは荒れ神輿だという話は全国的で、とくに利根川沿いにはげしく行われている。京都の祇園祭は天王祭りの最大規模のものである。
このほか大沢町の香取神社の祭礼も、以前はすこぶる盛大であったようである。たとえば明治四十一年九月六日付の『埼玉新報』に掲げられた投書には、〝大沢町民とお祭り騒ぎ〟との見出しで、
南埼玉郡大沢町に於ては、本月九日より十一日まで三日間、香取神社の大祭を執行し各町内は夫れ/\の花車を引廻して大々的景気を添へんとすと。而して之れに要する費用は、実に一千数百円に上る。猶個人の家にては晴着の新調其他の雑費を計上する時は、少くとも三千円以上の多額に達するならん。
とて、祭礼執行に支出される多額な費用を指摘、この冗費を小学校舎新築費などに当てれば、教育の振興や公共心の発揚に寄与するであろうと苦言を呈していた。
また七月下旬に各部落で「虫送り」(「虫追い」ともいう)が行われていた。一軒一本ずつ松明を作り、鎮守社へ持寄り、神酒をいただいてから点火し、区長を先頭に、太鼓鉦がつづき、松明行列を組んで、田の中を一廻りし、定まった場所(処により地蔵堂)で燃え残りの松明を燃して終る(戦後はあまり行われなくなった)。共同祈願として(雨乞行事などとともに)、かつては大きな機能を有していた。