念仏講の推移

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念仏はこの地方でたいへん人気のある行事で、各部落に念仏講(念仏仲間)があり、盛んに行われてきた。葬式の時にも行うが、盆には新盆の家へ招かれて執行するし、観音・薬師・不動などの縁日に集まって行うのもあり、新築の家に招かれて「家見念仏」(ユーミ念仏ともいう)を行い、婚礼に招かれれば「めでた申し」をうたった。「お姫念仏」(『市史一』一二四一頁の「はるなさん」がその歌詞)もさかんに唱えられる。これは榛名の沼に入水した女性のことを語るもので、一種の水神信仰である。

 念仏講については、既に『越谷市史一』九七二ページ以下および一二三七ページ以下に江戸時代の状況が述べられているように、当市域の村びとの生活にとけこんだものであったため、信仰行事であるとともに、芸能的娯楽的要素も具わっていたのは当然である。大正昭和期には一層芸能・娯楽の要素が濃くなったようであり、多くの村で月に一回程度老女が集って念仏と余興に打ち興じているのを見かけることができた。

 越巻丸の内地区の念仏講の定例の次第は、はじめに般若心経、つぎに懺悔文、南無阿弥陀仏三回、それからいわゆる月次(つきなみ)念仏の次第に入り、四方がため、ひきずり念仏。それに彼岸の終のきまりとして「からくり念仏」があり、四月十日(古くは三月十日)に「雹(ひょう)念仏」(雹害を避けるためあげる)をし、葬式には「岩舟地蔵念仏」(『市史一』一二四〇頁の「いわふねさん」がその歌詞)、新築祝いには「いみ(家見か)念仏」(『市史一』一二四二頁に歌詞あり)、婚礼の席へ出た時は「めでた申し」をうたう、というのが現行であるが、大正・昭和期にこうした定型化が見られたのであろう。余興としては、田植唄・とのさ・さのさ・伊勢音頭(「小念仏」の一つだという)・よかよか(数え唄)・下妻(おいとこそうだよ)・角力甚句・麦打唄・どばぶち(地形(じきょう))等々いくらでも出てくる。太鼓はもちろん、中には踊りをともなうのもある。これらも大正・昭和期の流行であろう。

 つぎに「ひきずり念仏」の歌詞を掲げておく(はやし詞は、各節冒頭に「ヤレ」、上句と下句の間に「イーアーエーヨーニ)。

  おやのみはたの(あるいは、さてもみごとな)八重桜

     なぜにひよどり巣をかけた

  早く立ちゃせよ花が散る

     それほど大事な花なれば

  天吹く風もいとうべし

     皆さま浄土へ参るべし

  これより東の日の本に

     小池に黄金(こがね)がみだれ咲く

  こがね釣瓶(つるべ)にこがね竿

     所繁昌と汲みあげる

  南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

     皆さま浄土へ参るべし