相撲の盛行

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相撲(角力)は江戸時代を通じてこの地方でもっとも人気のあるスポーツであった。右に述べた大聖寺不動尊の縁日には相撲が行われ、明治八年九月四日の縁日に定例通り「寄相撲」を興行する旨の届書が今も残っている(「諸願届書控之帳)。村うちのみに限らず近在から出場者を集めて催すことを寄相撲とよんだのであろう。

 伊原の松井家から明治初期に有名な「荒獅子」という角力取を出したが、この人について次のような語り草がある。かれはもと大名の抱え力士であったが、京都の北野天神で角力をとることになった時、天神の御分身を髷につけて角力をとり、横綱を倒すことに成功した。またその時天神の境内に植えてあったゴモ草を持帰り(この草は怪我の薬になる)、自宅に天神を祀る祠を建てるとともにゴモ草をほしがる人に頒けたので、人気大いに揚り、毎月二十五日(北野天神の縁日)には遠方からも人びとが群集し、絵馬がおびただしく上げられ、絵馬堂を建てるほどであった云々。このように人気力士をのちのちまで語り伝えたのである。

 桜井支所に保存されていた簿冊によると、明治二十年十月二十三日正午から午後六時まで、平方の香取社境内で奉納角力が挙行されている。また大沢町では、明治四十三年十二月、女角力一行を招いて一大興行を開催している。これに関しては、同月二十一日付『埼玉新報』によると、

  高玉一座の女角力は、十八日より南埼玉郡大沢町一丁目に大天幕を張り、三日間昼夜興行したるが、初日の夜興行は各種相撲の外、矢倉置き、力試めし、角力尽句等ありて、入場者六百人、頗る盛況なりしが、一座中美人の評高かりし国見嶽と、身丈け三尺三寸にして頗る滑稽面したる猫又との取組は、観客をして抱腹絶倒せしめたり、尚一行中国見嶽きよ・名取川おえい・大井川きし・東海道はなの四人が、兎に角美人として観客中には目尻を下げて垂涎三尺たるものもありしと

と報じている。これらもまた当時の社会風潮を窺う一つの手掛りともなろう。